石のように固くなってしまった心に対して、
何ができるでしょうか。
今週の苦悩の末に辿り着いた答え。
大原則に結局は行き着きました。
<Phase 1 準備>
①あらゆる人間的な計りごと、戦略を捨てる
②静まって黙想する。神の言葉を聞く。
③神のみに信頼し、一歩を踏み出す
<Phase 2 実践>
④相手のために祈る。
⑤小さなことに注力し、愛を込める。
⑥結果は神に委ねる。神が手を下されるのを忍耐して待つ。
<Phase 3 刈り取り>
⑦事が成就するのを見たら、それを決して自分のものとしない。すべて神に帰す。
「神の言葉を聴く」というとイタコを連想させますが
そういうことではなく、日々聖書の言葉を溜め込んでいく中で、
ふっとその日、何かのきっかけで与えられる、自分では思いもつかなかった言葉、
そこに行動の指針を見つける、ということだと思います。
「修行」「行動規範」「信念」といったものともまた違う気がします。
神が「せよ」と言ったことに取り組んでいく時
必ずと言っていいほど、自分の力を焼き尽くされるような障害に出会うのではないでしょうか。
もう無理だ、というところまで追い込まれます。
善人面して笑ってなど決していられなくなります。
理想を掲げて周りを苦しめる自分の不条理な姿に直面します。
かつてビジネスに注力し、自分の計画・人間的な計画で進めていた時には、こういう感情を味わうことはなかったと思います。PDCAという名の、計画修正を自分の手で行えるからです。
もはや、自分の理想のためにでも、社会のためにでも、お金のためにでも、誰のためにでもない、
ただ「神と共に歩む」、そこが腑に落ちるところまで、徹底的に火の中で精錬されます。収益事業だったら、とっくに止めているでしょう。
それでも、その苦しみと暗闇の中でも、なぜ続けるのか、という中に向き合って
たった一つの答え、それが「もはや私が生きてるのではない、私を生かしているのは神のいのちだ」というところに立つ時、
はじめて 光が見えてきます。
石にどんなに水を注いでも何も吸収しないように
どんな優しい言葉やアドバイス、励ましや薬、癒しも、石の心には無意味です。
内側からの光を知る。
それしかないと思います。
11/6にはいのちの電話様主催の、自殺対策のコンサートもあります。
いのちを絶とうと思うなら、その前にぜひこの感覚を味わってほしいと思います。