いのちが私たちの内側にあるとしたら、火葬場で燃やしたらなくなってしまうはずです。
聖書の創世記には「神は土のちりで人を造り、いのちの息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」と書かれています。
聖書の中で度々登場する「息」という単語は、ヘブル語の「ルーアッハー」という単語のようですが、これは同時に「風」「霊」という意味も持ち、神と人のいのちのかかわりを示す言葉です。
様々な哲学・宗教・科学に至るまで、この「霊」の存在を明らかにしてこようとしました。しかし、聖書の中でイエスが「あなたは風がどこから来てどこへ行くのか知らない」と語られるように、人には最終的には分からないことです。
人は風の音を聞けば、風が吹くことがわかりますが、風をコントロールすることは、誰にもできません。仏陀も「霊のことは分からない」というスタンスを明確にとっています。
私たちの中には、代々伝わってきた「固定観念」というものも存在します。江戸時代の寺請制度以降わずか400年の歴史しか持たない先祖礼拝や、占いや悪霊を恐れる思いなど。分からないがゆえに、押し付けられる情報や、世間の常識に多分に影響します。
今、中学校の道徳でも「いのちのつながり」は重要なトピックとなっています。
いのちのつながりーいのちの偶然性・連続性・必然性。そのように教科書に載っていますが、実際のところ、その説明が死を目前にする人、もしくは死を選び取ろうとする人の答えになるでしょうか?自分は、「諸行無常」に、消えていく存在なのでしょうか?
もしそうだとするなら、どうして人は、死ぬのが怖いのでしょうか?
動物は死を怖がりません。人間の感情を交えずに冷静に見れば、危険を避ける本能はあっても、いのちがなくなることに対する恐怖心は持っていません。
端的な例ですが、人が寝ている顔と、死んだ顔、共に差が分からないほど化粧をしたとしましょう。見た目が同じになったにもかかわらず、どうして死んだ顔は悲しく、寝ている顔は嬉しく思えるのでしょう?
それは、寝ている顔は「明日また会える」という確信(これも絶対ではありませんが・・)があるからです。死んだ顔は、「もう二度とこの地上で会えない」と思うからです。
そう考える時「いのちとは何か」が少しずつ見えてきます。
いのちとは、「つながり・交わり」だと言えるのではないでしょうか。逆に言えば、いのちは、人単独では存在し得ません。
神が人を作った時に、動物と違うことをしました。それが「息を吹きかける」という行為です。
これは、人が神とつながり生きる者であることを、象徴しています。
死んだ顔を見た時に人が悲しくなるのは、関係性の「断絶」を直感的に感じるからです。でも、いのちが、神とのつながりである、と知っていたらどうでしょうか。
「神=愛(思いやりの愛、犠牲の愛)」だ、と聖書に語られています。神はすべての人(宗教、人種問わず)を愛していると書かれています。そこには神がどういうもので、人はどう生きるかが(逆に神から離れるとどうなるかも)歴史上の事実として、また神のことばとして書かれていて、考古学的に証明されているだけでも3000年間近く一字一句変わっていません。
しかし、地球上の人々の間で、宗教、文化は様々ですし、生まれてから一度も神様のことを聞かない人もいます(おなかの中の赤ちゃんとか)。でも、神様を否定しない、つまり、思いやりの愛、犠牲の愛の中に生きた人は、死んでも神の愛の中にあり、神の元にいるのではないでしょうか。自分もやがて、神の元に行きます。一足先に、出かけた、ということが分かれば、悲しみも和らぐでしょう。
4歳で急死に一生を得た際に、天国を体験した少年が、天国の様子を語った実話が映画になっています。とても印象的な映画でした。
しかし、逆に考えてみれば、
一足先に行った人は、神の元で、何を望むでしょう?
まず、「怖がらなくていいよ。私はもう大丈夫だよ」と伝えたいでしょう。
それから、「人がひとりで生きることがないように」と望むのではないでしょうか。
いのちのつながりなく、ひとりで生きることは、体が動いていても「死」だからです。
そう考える時、
「人がなぜ生きるのか」
永遠の時の中で、わずかの一瞬ではありますが、この混迷の世の中で、何のために動く肉体と考える頭を一定期間与えられているのか、その答えが見えてこないでしょうか。
人は「いのちをつなげる」ために、生きているのではないでしょうか?
当たり前のことかもしれませんが、これには子孫を残す、仕事をして家族を養うという、動物と同じ肉体的な意味以上に「自分が神から受けたいのち(=思いやりの愛、犠牲の愛)をしっかり受け取り、感謝し、一番身近な人にそのいのちをつなげていく」ことではないかと思うのです。
マザー・テレサのような活動は、まさにこれだったと思います。早朝からの祈りによって、神からの愛をいただき、満たし、そして世の一番貧しい方々に仕えました。
医療機関や介護施設では、大変な愛の働きが実践されていると思いますが「人間的な与えるだけの愛」。これは、必ず枯渇します。先に、自分が神からの愛を満たす時を持たなくてはなりません。
もしそのスタッフの家族から、同僚から、出入業者様から、もしくは患者様や入居者、ご家族から、ちょっとした優しい言葉がけ、笑顔、思いやりの言葉があったら、どうでしょうか?
こんな単純なことが、忙しく余裕のない私たちにはなかなかできません。でも「いのちのつながり」は、そこからいつもはじまるのです。
50本の立派なバラの花束も、100万円の遺産も、確かに素晴らしい「いのちのつながり」です。でも、心からの笑顔、感謝の言葉、思いやりの行いは、死んでも消えない「神のいのちのつながり」なのです。
わたしたちのいのちを次の世代に紡ぎたいと思うなら、墓の心配をする前に、身近な一人でも多くの人に、死んでも消えない「いのちのつながり」を、一つでも多く、残そうではありませんか。(そうすれば墓の問題は自然と解決するはずです)