2017.01.28

人生という交響曲

IMG_2845あなたは、人生という交響曲で、何を奏でるでしょうか。

ショパンのように、儚くも美しいメロディでしょうか。マーラーのように力強い管弦楽でしょうか。それとも、チャイコフスキーやベートーベンのような、苦難の中にも光を見出すような曲でしょうか。

レーザー治療で著名な医師の藤本幸弘先生が、ご自身が監修された音楽CD「藤本先生の聴くだけで不眠がすっきり」のライナーノーツの中でこう書かれていました。

「誰もにその人だけの最高の交響曲を奏でられる能力が備わっています。その人だけの美しい曲を作曲できるポテンシャルを誰もが持っているのです。処方箋を書き、投薬や治療にあたること以外で医師にできることのひとつに、その曲を楽譜に落とし込み、本番前の練習にとことん付き合うことがあるのかもしれませんね。

人生というその人だけの交響曲を、できるだけ不協和音なく最後まで奏でられるように。」

 

紀元前1500年ごろのメロディーを再現したとされる、ライアー(竪琴)の演奏です。

 

古代メソポタミアのBC2600年ごろのウル王の墓に竪琴の奏者が共に埋葬され、おそらく息絶えるまで演奏し続けたのではないか、と言われています。

音楽といのちの繋がりを感じさせる出来事です。

こちらは9-10世紀に急速に拡大した「グレゴリオ聖歌」の再現です。

単旋律から、並行4度のハーモニーと、音楽の進化していく過程を感じ取ることができます。

 

私がバークリー時代に学んだジャズ和声の根本は、「不協和音を内包することで響きの豊かさを作る」ことでした。

 

絵画が一瞬でその美しさを感じ取ることができるのに対し、音楽を楽しむには、時間を必要とします。

また、音(周波数)の高い、低い、という数学的な概念も伴います。

また、絵画は一人が没頭することで作品を仕上げるでしょうが、「交響曲」は「交わり響く」と書く通り、人との交わりがなければ、一人では奏でることができません(オーケストラの楽器はほとんどが単音楽器です)。

永遠の時の流れの中で、ある定められた時間、長さ・高さ・深さを刻み、奏でていく。それが人生という交響曲だと思います。

 

 

ところで、音楽の中には、必ず「休符」が存在します。

なぜ休符が必要なのでしょうか。

一つには、管楽器を奏でる方ならすぐお分りでしょうが、息継ぎが必要なのです。

もう一つは、休符がなければ余韻が存在しないため、響を響として感じ取ることができない、という理由です。

休符になるためには、音を美しく終わらせなければなりません。綺麗に音を終わらせるためには熟練を必要とします。しかし、その終わり方が丁寧であればあるほど、休符の間に人は余韻を感じ、響のスケールの大きさを改めて感じるのです。常に音が鳴り続けていると、音は「壁」のようになり、どれほど響いているかを感じられません。そうして、さらにフォルテ、さらにフォルテッシモと盛り上げていく中で、息が切れてしまうのです。これは経験不足の演奏家や作曲家が必ず陥る罠です。

 

人生の交響曲の中に、休符はあるでしょうか。

もう立ち上がれないほど、「生きていても仕方がない」と思えるほどの、休符があるでしょうか。

 

休符が長ければ長いほど、深ければ深いほど、
人生の交響曲は、美しく仕上がります。

その次に発する音が、どんなにか弱くて、細い音であったとしても、ものすごい存在感を持って、永遠から永遠の時の流れの中で、唯一無二の響を生み出すのです。

 

人は、人生の最後の最後まで、交響曲を奏で続けます。そして、その曲は、次の世代へと、バトンタッチされていきます。

人はその人ならではの交響曲を、奏で切る役割があります。

 

最後の一音まで、気を抜かずに奏で続けること。
その音が、次の永遠へのイントロとなること。

 

私の仕事は、「その譜面起こしと、練習にとことん付き合うこと」なのだ、と再認識しました。

 

 

 

 

 

音楽史には、歴史に残ったものだけが記録されていますが、いつの時代も、どんな場でも、存在したと考えられます。音の日々

 

決して現代以前が平和な世の中で、現代だけが不協和だとは思いませんが、

聖書の中の例えで、麦畑に敵が毒麦を撒いて、それが普通の麦と同じように育ってしまった畑を見て、主人が「毒麦はそのままにしておけ」という話があります。

収穫のときには、毒麦は集められて束にして焼くから、というのです。

一方で、有名な「ノアの方舟」の話は、夢の中で「わたしの言葉に従え」と啓示を受けたノアが、洪水など予測もつかない中で一人、大きな方舟を作り続けた、となっています。

 

浅はかな考えの私は、「神はどうして毒麦を途中で狩り集めず、逆にノアに助け手を与えなかったのか?」と思います。

音楽に例えると、毒麦の巻かれた畑は、耳には刺激的な不協和音の現代ハーモニーかもしれません。一方で、ノアの人生は、

 

私の人生は、私にしか奏でられません。それと同時に、まだ終わっていません。でも、いつ終わるかわかりません。

それが終わりのないマラソンのように思えるとき、とても辛いものとなるでしょうが、


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