先日、富山の八尾というところに行きました。山の高いところに、温泉&保養施設があり、一晩ゆっくり過ごさせていただきました。こういう何もしないでゆっくりものを考える時間がとてもありがたいですね。
辺り一面、本当に綺麗な虫の声が響き渡っていました。木々や草もそよ風に揺れて、心地の良い音を奏でていました。
温暖湿潤気候の日本は、あらゆる生命が四季折々の豊かな自然の中でいのちを育むことができる素晴らしい場所だと思います。砂漠だとこうはいかないかもしれません。
昆虫に詳しい方によると、秋の虫で鳴いているのはオスだけで、メスを求愛するために鳴いているとのこと。でも私には、どう聞いてもそれ以上のものを感じずにはいられません。
人間でも、とても美しい声や顔で、異性を呼び求める、ということはよくあることでしょうが、それだけが人の生きる意味なのでしょうか?目にみえた客観的事実だけから物事を推測することは、全体像を見失うことにもなりかねません。フロイトのリビドー(性衝動)が人間の性格を決定する、といった理論(現在は否定されつつありますが)の顛末に何か似てないでしょうか?これはフロイト自身の若き日の、「母の愛を獲得する」体験が影響を与えていると言われていますが、愛は獲得するものでなく受け取るものである、という視点に立つ時、違った視点が開けてくるように思います。
昆虫も「愛を獲得するという生き物」という視点だと、「オスがメスを呼ぶ」というようにしか聞こえないかもしれませんが、神様に愛のうちに造られた生き物、という視点で見るとき「与えられたいのちを賛美する声」が鳴き声である、と感じないでしょうか?
そもそも、「いのちを紡ぐ」というのは誰の意志でしょうか?昆虫が自分の生きた証を残そうと思って求愛行動をとっているでしょうか?よくよく考えれば、それは「神の意志」ですね。創造主が「産めよ、増えよ」と言い、またその生き物を見て「非常に良い」と言われたのですね。
今朝もスズメがとても元気良く鳴いていました。冬支度の準備でしょうが、何をそんなにたくさん話すことがあるのか、と思うくらいずっと喋っています。これもいのちの賛美でしょう。人も自分の話し声を、自分の愛、目的の獲得のためだけでなく、感謝、喜び、励まし、、といった、愛を起点とした言葉を発することに使うこともできます。
音楽は、まさにそのために存在してきたのではないでしょうか。
歌というのは、音と愛の言葉が一緒になって、ものすごい力を持つと思います。だからこそ、演奏する側、演奏する演目が、どこに向かってその音を奏でているか、それによって歌はプラスとマイナス、ほぼ180度反対の力を持つと言っても過言ではないと思います。
揺れる草花、美しく紅葉する葉もそうですね。風による摩擦抵抗で音が発生し、それが植物の導管の繊維の弾性限界値以上になった場合、重力に引かれて下に落ちる、と言ってしまえばそれまでですが、いのちの限り、音によって、色によって、いのちの賛美をささげ続け、しかも自らのいのちの末期に一番美しく輝き、やがては姿を変え次のいのちの礎となっていく、これこそ最高の「いのちの賛美」ではないでしょうか。