かつて一緒に仕事をした仲間で、音楽業界では名の知れた人でした。
一時体調を壊して、シーンから引退していたそうです。
その時から、本当に大事なものに向き合い始め、幼かった頃に慣れ親しんだ聖書を紐解くようになったそうです。
私も全く知りませんでしたが、 たどれないくらい前の代からつながる筋金入りのクリスチャンで、大学まで欠かさず毎週ミサに行っていたそうです。彼の地元では学校と教会が溶け込んでいて、それが当たり前の光景だったそうです。
彼が手掛けていた音楽は、どちらかといえば真逆の、深夜に大音量で流れるタイプの音楽でしたが、その体の悪い時期を通り過ぎてからは、作る音が全く変わってしまって、スッキリ明るい音になっていました。
今、信仰を持つ伴侶を持ち、共に毎週ミサに集うようになったそうです。
「病を通して神様は大事な事を気付かせて下さった」「カトリックで本当に良かった」と彼は語っていました。
「なかなか僕たちの持つ価値観は理解されないですよね・・」と語りながらも、その表情は本当にスッキリしていて、ブログを喜んで読んでくださっているのに私もすごく励まされました。
彼の話を聞きながら、彼の背後にあるお母様、また祖母の強い祈りを感じずにはいられませんでした。考えてみれば、一緒に仕事をしていた時も、確かに何か違う輝きがありました。その時にはそれが何か分からなかったのですが、今はっきり分かった気がします。
「放蕩息子は、とりなしの祈りによって、必ず帰って来る」
この確信を改めて与えられました。たとえ人が死ぬまで神様を受け入れなかったとしても、とりなしの祈りがあれば、「一人の正しい人がいれば街を滅ぼさない」と語られているように、神様の方法で、必ず立ち返るのだと思います。実際「一人残らず、神様のもとに立ち帰っていく事」それを神様は望んでいると聖書にあります。
人は十字架を持って人を裁く事は出来ません。これは私達が過去に犯した大きな間違いでした。アメリカ開拓時代のインディアンの悲しい歴史を見る時、キリストという名の下にその文化を強制させられた人たちは、神を畏れる生活をしていたにも関わらず、キリスト者は彼らを仲間として受け入れる事ができませんでした。
「自分が正しい」=「人を裁く」これが、いつも悲劇を生み出します。
なぜ聖書はストレートに「罪を認め悔い改めよ」と語るのか。
裁く権利は神にしかありません。罪(神から身を隠して歩むこと)の自覚が全くないと言い切れる人は一人もいないはずです。「死んでお詫び」は神には通用しないのです(神が人にいのちを与えているからです)。罪人の私達が出来る事は、「私も同じ罪人です。あなたが私を赦し救ってくださるように、どうか私の愛する●●さんを救ってあげてください」と祈ること、これがとりなしの祈りです。
世の中の成功、人気、努力、こういったものはすべて、神から離れて歩んでも実はいけるんじゃないか、という錯覚に陥らせるきっかけになります。だからこそ「目を覚ましていなさい」の御言葉通り、私達は気をつけたいものです。成功の美酒に酔う私達は、まるで石鹸の上に立つようなものです。ひとたび濡れると、それはそれは見事に滑り落ちます。そして、神はその一滴の雫をいとも簡単に落とすことができます(罪が明るみに出る為に、また神の特別な目的のために、神はあえてそれをされずに放置される事もあります)。
でも、病や失敗などで、とことんまで落ち込んだ時、その時こそ、実は神が一番強く、私達の手を取ってくださっている時であります。肉体的・精神的には辛くても、霊的に成長する備えがそこにあります。乳癌を2度経験し、本当に苦しみの中を通って来たチャプレンのDonna-Marieさんの言葉は、「苦しみを通してしか、私達は霊的に成長しない」。彼女は私の大事なメンターの一人で、今も精神的・肉体的苦痛と経済的困窮に苦しむ女性の為のカウンセリングを続けています。彼女の夢は、スピリチュアル・ケア・センターを設立し、宗教を問わず、霊的成長を助ける仕事をすること。私も同じ夢を持っています。この9月にサンディエゴでそのセンターの設立式があり、私も応援に駆けつけることにしています。
神は、私達を霊的に成長させる為に、あえて「ギリギリ」の淵を通らせることがあります。でも、それは恵みなんだ、ということを、このたびの再会を通して、本当に思いを新たにさせられました。
もし、音楽業界・ゲーム業界・エンタメ業界で「何か自分の今いる場所は違うのではないか・・」と思う方があれば、是非ご連絡を下さい。いろいろと話して分かり合える部分が、きっとあるのではないかと思います。