潟の音風景CDVol.IIに収録されている私の曲”I'm Yours"の手書きスケッチ楽譜です(途中で切れていますが・・)。私の譜面は本当に汚いので、共演してくださる方が慣れていないとbと6を見間違えたり、m7とM7が区別つかなかったり・・と本当に迷惑をかけていて申し訳ないです。
ところで、私はビジネスに関して何か偉そうな事を語る資格は毛頭ない(そんな結果も出していない)ことをはっきり前置きした上で、ふと思った事を書いてみます。
作曲を勉強する時、いろんなスキルを学びます。これは、そのまんまビジネス戦略でよく聞く言葉に当てはまる感じがします。
例えば、Retrograde(逆再生メロディ)。これは「逆転の発想」そのままですね。中世の音楽の展開のさせ方の一例として勉強するのですが、厳しい言い方をすれば、これは「ネタが尽きた時の裏の一手」みたいなものです。
他には、Counterpoint(対位法)。これは縦割り発想の和声に対して、2種類以上のメロディが独立して動く際の組み立てスキルを学ぶものです。歴史的には対位法の方が和声よりもずっと前で、元々は単旋律のグレゴリオ聖歌にどうパートを増やすか、みたいなところから始まっていました。
和声的発想だと、皆が同じ縦の枠の中でしか動けないところを、横のつながりでもって意味を作っていく。ただし、内部の構造が5度や8度などの「あからさまな平行移動」をしていけないという原則もあります。ジャズ理論では禁則がいろいろと簡素化されますが、クラシックでは結構細かなルールがあります。確かに、それを一つ一つ守っていくと、「サウンドするなあ」という感じになります。
ちょっと極論かもしれませんが、この対位法は「ブルー・オーシャン戦略」みたいなものかな、と思っています。要するに、皆が集まるところにいくのではなく、まだ成熟してない空いた市場を狙え、また余分なものを減らし、特徴のあるものを付け加えよ、という作戦を、帰納的な分析により行う。対位法の実習も、最初はパズルを解いているような、とても帰納的な思考回路の働かせ方をしますが、やがてそれが体に染み付いてくると、自然とそういう音の運びができるようになります。
しかし、この戦略の最大の欠点は、行き過ぎると、音楽で言うところの「聴衆が理解できず、おいてきぼりにされてしまう」状況になること。また、自分がせっかく開拓したと思っていたエリアに、間もなく別の音の大きいソリストが入ってくると、自分の繊細なユニークメロディなど一掃されて、またもやChaosに変えられてしまう、ということ(聴衆は対旋律など気にせず吹き倒すソリストに耳を奪われ、対旋律を地道に演奏している人が逆に「あ、あの人、音間違えた!」と思われる)。その柔軟性と自由な発想と忍耐力が尽きた時点でゲームオーバーとなります。
対して和声は、資金力の強さをバックに「圧倒する」力で勝負する感じです。カウント・ベイシーのtuttiのような、密集&展開のバリエーションで聞かせる和声のパワー感は、誰もを虜にする力があります。内声を演奏する人は、メロディを超えないのが原則。組織の中でのバランスをうまくとること(そしてバンドを首にならないこと!)が、和声の必勝法と言っても良いでしょう。実際、ジャズの歴史の中で大衆の人気を博しているのは、ほとんどこの「和声タイプ」のサビを持つ曲です。エリントンの"Harlem"など、対位法の超名曲として、大学の授業ではよく取り上げられましたが、おそらく知らない人の方が多いのでは・・
では、作曲家はどこに向かえば良いのか・・・
おそらく究極の答えは、帰納法では出てこないのだと思います。それは「宇宙が先か、神が先か」みたいな議論に突入していきます。
作曲自体がそもそも「演繹的なもの=神が与えるもの」だからだと私は思います。グレゴリオ聖歌も対位法も和声も、どんな知識も経験も戦略も、全く無学の、何の変哲もない、しかし全身全霊を込めた演奏家の「ド」の単音ロングトーンに、決して勝てないことがある、という事実がそれを証明しています。
昨日は星野富弘美術館に行って、吸い込まれるように展示を見ていました。あまりにもすごくて、これほど感動した展示会はありませんでした。
中でも私が一番感動したのは、両手両足付随になり、まだ口で筆が自由に持てなかった頃、母が帽子を動かして「お富」という文字をサインした、という、どなたかのための寄せ書きの帽子。その二文字書くのが精一杯だったとのことですが、そのお母様とのやりとりを想像するだけでも涙が出ました。
戦略を選ぶのももちろん大事だと思いますし、そこは私よりも経験豊富な方がたくさんおられることは百も承知です。しかし「弱さの中にこそ神は働かれる」こともまた事実ではないでしょうか。