Harp Therapist、Linda Hill-Phoenix氏のホスピス・ベッドサイドでの演奏の様子。
この時の体験は、私の音楽に対する考え方を大きく変えました。詳しくは日比野音療研究所のサイトに書いています。
厚生労働省が平成26年に発行した「終末期医療に関する意識調査等検討会報告書」では、終末期医療を「人生の最終段階における医療」という呼び名に変え、全人的なケアを推進することが書かれておりました。
音楽をケアの一環として用いるとき、ともすれば「療法」の側面が強くなりすぎて「何かが改善する」ということに対してのみ評価が下されたりしています。
もちろん、そういう側面があることは数々のエビデンスからも事実だと思います。
しかし、私が思うに、本当の音楽のなすべきことは、病気が奇跡的に治ることよりも、一時的に問題から目をそらし心が安らぐことよりも、死を受け入れざるを得ない強烈な不安・圧迫・焦燥感から一転して、天国への希望の確信と平安を得る、その手助けをしつつ、共に歩むことではないかと思うのです。
ちなみに、しっかり誤解がないようにしておきたいのですが、「音楽の力が人を救う」のではありません。例えて言うなら、音楽は、自動車。見た目の美しさに惚れ惚れしたり、ある種の思い出とリンクさせるノスタルジックな効果はあったとしても、死というゲートを突破する力にはなりません。
自動車は何のためにあるのかというと、走るため。そして、ある地点に移動するためにあります。そのためには、ガソリンと運転手がいるのです。
音楽という自動車に「神の愛」というガソリンが流れることで、はじめて前に進むことが出来、意味をなすのです。運転手については後述します。
これは古代エジブト時代からよく知られる、人の構成要素を簡略図にしたものです。
人は体(肉)・心(精神)・魂(霊)からなると言われます。魂と霊は時代・宗教によって様々な定義があり、異なったものとする考え方もありますが、ここではそれらを総括して「死んでも残るもの」とします。
医学が対象とするのが肉であるとすると、心を対象とするのが芸術であったり、人とのコミュニケーションであったりします。
音楽(特にハイレゾ)は、まさにこの心と魂(霊)の境界領域に働くといえます。そう言える幾つかの証拠があります。
1)聖書的理解
旧約聖書を通じて、神は約束を守るものに「天からの声=音」を聞かせ、従わないものに「雷や大水」を持って恐れを生じさせています。また出エジブト記では、ダビデがサウル王がいわゆる「うつ状態」であったところにハープを演奏し「サウルは元気を回復してよくなり、悪い霊が彼から離れた」との記述があります。また、ヨハネの黙示録では、天国にて「竪琴が奏でられ、新しい歌が歌われている」様子が記されています。神、霊の働くところにはいつも、音楽があります。そして、人の魂の中に神のいのちが入るとき、人はいのちを得ています。
2)経験的理解
葬儀のお経、コーラン、いずれも非常にハーモニクス(倍音)を多く発生させる発声法をしています。節をつけて斉唱することで、倍音がより多重になり、増強します。サンスクリット語のマントラのチャントも同じです。そこに、高周波の揺らぎベル(お鈴)が入ることで倍音はさらに加速します。インドで使われるシタールという楽器の倍音は非常に高い成分を含みます。あらゆる宗教において、音楽と、特に高い周波数が人が霊的なものを感じやすくさせる、ということが経験的に理解されていると言えます。
ちなみに、音楽が好きとか嫌いとかいうのは、「心」のことです。また、懐かしい曲を聴くことで認知症の進行を食い止められる、というのも「深層心理」の心のことです。
大事なのは、人が魂(霊)の内側に何を取り入れるのか、ということです。
弔いの音楽(お経など)は、人の側から、霊に対して行うアプローチです。ブッタも死後の世界については「沈黙」しています。これは、人間としてとても謙遜な姿勢であり、人には死後のことは分からない、だから雑念を入れて考えるべきではない、ということですね。
キリストははっきりと死に対しての答えを語っています。
「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。私を信じるものは、死んでも生きるのです」(ヨハネ14章6節)「わたしの父の家にはすまいがたくさんある」(ヨハネ14章2節)
天国には神が住まいを用意しているが、そこに至る道はわたしである、とイエス・キリストははっきり公言されています。
先々週の牧師先生のメッセージで語られていた「たとえ宗教の創始者であったとしても、人間が、こんな言葉を言えるだろうか」という言葉は、大変印象的でした。イエス・キリストが神の子であるからこそこの言葉がはっきりと言えるのでしょう。事実、命を賭けて、神を認めない私達人間の罪の為に犠牲になりながらも、復活した記録が数多く残されていることから、神の言葉としての威厳と力を感じます。
仏教を始めとする「霊的に解脱し惑わされない」という方向性、そしてインドを起点とする宗教にある「霊的に成長する」という方向性は、この世を生きて行く上で、非常に有用な指針になりえるでしょう。
しかし、人間の側から理解しようとするときに、「死」はやはり分からないものです。その恐れが故に「こうやって生きよう」という道徳訓・律法主義的な考え方が生まれてきます。そこから、戒律・ヒエラルキーといったものが生まれてくるものも当然と言えましょう。
冒頭で、音楽は「自動車」だと書きました。
神を車の運転手にするか、もしくは自分を運転手にするか、それによって車の方向は180度逆転します。神がハンドルを握れば、神の愛というガゾリンを満たして、死のゲートを打ち破り、平安のうちに天国への道を開いてくれます。自分がハンドルを握れば、一時的にはとても快調に進むように思えるでしょうが、羨み、嫉妬、憤りというガソリンが満ちているために(本来、人は神が作ったものですから、神の説明書に従うならば、神の愛しかガソリンにはなり得ません。違うものを入れると壊れます)その行き先は死によって本当に閉ざされてしまいます。
音楽が神によって作られ、神を賛美するために作られたがゆえに、それを本来の目的のために用いるのか、自分の表現のために使うのか、が問われています。
現実は、大半の音楽が後者です。なぜなら、その方が人が心惹かれるからです。
だからこそ、音楽家はその責任の重大さを理解し、取り組む必要があると思います。人生の最終段階において、肉と心が弱っている時に、霊的なものは非常に大きな意味を持ちます。
動物は人間ほど死を怖がりません。もちろん死から逃げますが、それは本能的なものであり、死に対して恐れを抱いて悩み苦しむ、という性格のものではありません。
なぜ人間は死をこれほどまでに怖がるのでしょうか。
それ自体が、人間が霊的な存在である、ということの最大の証ではないでしょうか。迷子になった子供がこの世の終わりのように泣き叫ぶが如く、造り主の元に帰らない子供は、不安で仕方がありません。
「癒しなんか、実際に苦しんでいる人は誰も求めてない」「求めているのは、癒したいと思ってビジネスを展開する人たちだけだ」という率直な意見があります。
だからこそ、言いたいと思います。「音楽家の私たち自身に癒す力はないし、提供することもできません。癒すのは神であり、神の救いを受け入れる方の元に本物の癒しが来ます。もうどこにも頼るところのない打ち砕かれた魂、それこそ神が最も喜んで受け入れられるものなのです」。