凛舟の一番の応援団長であった、福島潟の館長、小山佳寛さんが先日亡くなりました。まだ68歳という若さで、つい先日までお元気な姿を見せておられたのに、大変残念です。
凛舟そして天上の音楽の活動を、単に商業活動ではなく文化活動である、として、あらゆる面で利害を超えて支えてくださいました。正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、ということを立場を恐れずはっきりと語ることのできる、新潟では本当に貴重な存在の方でした。
あれほどの知識と知見に富み、豊富な人脈と優れた頭脳、鍛え抜かれた体を持っておられる方が、こんなにも一瞬にして塵に帰ってしまうとは、なんという「もったいない」ことでしょうか。一体、人は何のために生き、学び、努力し、高みに登るのか、すなわち「人はなぜ生きるのか」という問いを感じざるを得ません。
訃報を聞いた時、私は直ちに祈りました。小山さんの魂を、神様が迎え入れてくださるように。天国で安らげるように。
しばらくして、はっきりと示された一節がありました。マタイの福音書25章に以下のような箇所があります。
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
聖書は繰り返し、「神は愛である」と教えます。上節が語っているのは「人は善行に励め」という狭い意味ではなさそうです。そうだとしたら「私はいつそれをしましたか?」という質問にはならないはずです。「私はこれだけやったのでこれだけください」となるはずです。
神様が祈りを通して私に教えてくれたのは「愛のうちに生きた人は、同じように神様が愛してくださり、受け入れてくださる」ということでした。
しかし、愛に生きるかどうか、の選択は、生きているうちにしかできないのもまた事実です。死んでから「やり直します」とは言えないのです。
神の時計は永遠です。一瞬と永遠が同じ、という概念が私たちにはわかりません。ほんのこの瞬間の小さな愛の行いが、いのちの与え主である神の永遠の愛とリンクするということが、私たちの頭ではどんなに考えてもわかりません。
分からないがゆえに、私たちは、間違いながらも、失敗しながら、歩みます。人としての努力もします。
でもそんな私たちの思いを遥かに超えて、神様の計画のうちに、私たちは知らず知らずのうちに、神様のピースとなって、この世の中で働きをしているのではないでしょうか。いや、そのことを神は聖書を通じて私たちに教えてくださっています。
神の子供となるか、そうでないのか。
愛に生きるか、背を向けて生きるか。
それを決めるのは、生きている間にしかできません。
そのことを知り、決断すること。それが「人の生きる意味」ではないでしょうか。