2016.03.21

待つということ - perseverance -

d44l_2906新潟の春もすぐそこまで来ています。森にも鳥の声がこだまするようになってきました。

新潟にとっての冬はまさに「待つ」そのもの。太平洋側のように冬も同じペースで活動というわけにはいきません。だからこそ冬から春の変化は、冬眠から覚める動物のように体力的にも気分的にも大きな変化を伴います。

 

「ソリューション」と「待つ」ということはある意味対義語かもしれません。

先日、待つためには「ビジョン」が必要だ、という話を書きましたが、ものすごく多くのソリューションが提供され手軽に手に入る現代にあって、右にも左にもブレず進んでいくためには、どんなビジョンが必要なのでしょうか。

「納車6ヶ月待ちの車」「行列店のラーメン」を心待ちにするのも一つのビジョンでしょう。しかし、車を手に入れ人々から羨望の眼差しを受けること、美味しいラーメンを食べること、その行為が終わった時点で、ビジョンそのものが終わってしまいます。その次に待っているのは、終わらない維持費の支払い、食べ過ぎによる口内炎かもしれません。

 

春の植物に学ぶことがあります。

ふきのとうにとってのビジョンは何でしょうか。

「春になったら芽を出すぞ」「美味しいふきのとうになるぞ」と思っているでしょうか。

そんなはずはありません。時期が来たら、自然と芽を出すのです。

ふきのとうにとってのビジョンは「そこでその瞬間、生き続けること」でしょう。環境変化の中で自ら枯れさえしなければ、必ずその先があります。

そして、最も美しい瞬間、私たちがそのいのちをいただいているのです。

 

逆に言えば、ふきのとうは、その最も美しい瞬間に、自分のいのちを捨てたことになります。これから素晴らしいふきの花が咲くというのに、それに争うことなく、切り取られ、そのまま180度の天ぷら油の中に入れられるのです。

そう考えると、ふきのとうは、自分で望むと望まないとに関わらず、その美しい最後の死の瞬間のために生きていると言えます。いやむしろ、そのいのちが食べた人に循環して生き続ける(「おむすびの祈り」の佐藤初女さんの言葉)のでしょう。

ビジョンとは、自分が死んだ後も続いていくものでなくてはなりません。人の願いではだめだということです。過程も含めてすべて、神の働きの一部と成り切ること。

いつ刈り取られても良いように、細胞のひとつひとつにその思いを染み込ませること。人間的な計算で動いていないか吟味し、愛のない行いを一つづつ排除していくこと。そのための静まった時間を取り、全てを委ね切ること。それが、本当の忍耐を生み出し、苦難に遭う中で、練達・品性が醸し出され、最も美しい「ふきのとう」に私たちも倣えるようになるのではないでしょうか。

 

 


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