熊本の地震は被害が甚大になってきているようです。被害に遭われた方々、救助される方々が守れるよう心から祈ります。
福島潟では菜の花が満開です。週末に5000人の来場者があるそうです。
新潟の生活が3年目に入り、真冬の何もない福島潟も生活の一部になってきたときに、この春の感動がまた違ったものに見えてきました。
東京にいたときは、ある意味「花=華」が当たり前でした。年中いつもどこかに花がありました。街にも華が溢れていました。夜も電気が消えることはありませんでした。
でも、新潟の冬は違いました。生き物は死に絶え、植物は枯れ、連日曇り空の中で吹雪が吹き荒れました。以前に比べて随分暖かくなったそうですが、太平洋側しか経験のなかった私にとっては、新鮮な感覚でした。
「早く春が来ないかな」と思う気持ちの一方で、いざ春が近づくと「まだまだ春の準備ができていない」と焦る自分がいました。春には咲かなければいけないのに、咲くには程遠い自分を責めてしまいます。そもそも咲くのかどうかも分かりません。虫に食われて倒れている枯木の方がよほど親近感を感じました。
しかし、よく見ると、そんな枯木も、実は小さな新芽を付けていました。近所の浜は未だに枯木だらけですが、夏になると信じられないほどの葉を茂らせます。地面にはすでに下草が青々としています。華はないかもしれませんが、いのちはしっかりそこにありました。
人は、花=華を愛でます。でもやがて散ることが分かっている華の美しさは一瞬です。華が去ると同時に人も去っていきます。そして人っ子一人いない、寒風の吹き荒れる福島潟を私は冬の間ずっと見てきました。
枯木の気持ちは枯木にしか分かりません。でも、枯木になることは、枯木の気持ちを本当に理解するのに必要だとも言えます。東京にいた私であれば「次にいけばいいや」と場所を変えていたでしょう。でもそこに根を張り、冬をともに過ごすことも、また良いなと思えるようになってきました。地に足をつけた感覚というか、底に立って、大事なものを見通すことができる気がするのです。
時代や季節、環境によって左右されないもの。私の力ではどうにもならないもの。けれども、もっとも華がなく暗い時にも力になるもの。希望は華になることではなく、新しいいのちが芽吹くということを知っていること。それが本物ではないかと思います。