先日、非常に印象に残る話を聴きました。
人間の悲しみは、内側から来るもの。
幼少期の潜在的な体験や、それがベースになって引き起こされる外的要素との関わりの中で引き起こされる葛藤など。心のさらに内側にある、霊的な部分に端を発することです。
内側の悲しみが解決されないと、人間は外側に向かいます。それで解決できれば良いのですが、できないと、その本心が暴露されるか、もしくは自分の中にバイパス回路を作ってしまう(精神障害・トラウマ)ということになります。
一方で、人間の笑いは、外側から来る。
「エンタテインメント」は全て外的なものです。笑うことは嬉しいし、人間の心身に良い影響を及ぼすことは間違いないのですが、基本的には自分の内側からは自動的には出てこないものです。根本的な内的な悲しみを一時的には拭うかもしれませんが、根本的に解決するのは難しいかもしれません。人の賞賛、これも外的なもので、人間に喜びを与えますが、根本的な悲しみは解決できません。
P.トルニエの「人生の四季」の中に、人間の成長に必要な4つの要素が挙げられています。
「愛」「苦悩」「同化」「順応」です。
1つ目の「愛」は、神の愛、そして親の愛。これが自分のアイデンティティの基盤となるものです。
2つ目の「苦悩」を通じて、人間は外部に対する期待を絶たれる経験をします。あらゆる外的な自分を喜ばせるものが自分の救いにならないことに気づきます。「一生幸せにするよ」といった伴侶が裏切る、など。それは自分に対する失望へとつながっていきます。
そこで、人間は神の愛、親の愛のうちにある「痛み」を知ることになります。
それはまさに、放蕩息子が親の元に帰る時の如く、親が自分のために覚えた「痛み」、キリストが十字架で覚えた「痛み」を自分のものとして体験する、それが3つ目の「同化」のステップです。
4つ目の「順応」は、その痛みが自分を愛の実践によって生きるものへと変えていく力になります。その原動力は、自分の努力や高い人間性のなせる技では決してなく「せずにはいられない」という愛によって突き動かされるものとなります。そして人の「痛み」を知り、「苦悩」をものともせず立ち上がり進んでいく力が与えらえていきます。
いつの時代にも、どんな人にも「苦悩」はあります。ただ、今、現代の一番の問題は、「苦悩」に向き合わずに済むようにさせる「ソリューション」があまりにも多いことではないでしょうか。
楽しい時間。スマフォの遊び。バーチャルな距離感で深入りせず済む友人関係。手軽な「癒し」を提供するサービス。少しでも「楽」な転職、心の痛みを取る「薬」・・
発展は良い面もたくさんあります。しかし、本当に「苦悩に向き合う」そして自分の中には何も見いだせない、そんな中から、それでも自分が神に愛され救われているという「希望」を見出す機会を失うことは、大きな損失ではないでしょうか。
その経験を経ずして、自分の持っているもの、キャリア、富、能力、健康、遊び・・そういったものをさらに持つことを目的として進んでいったら、いのちの終わりの日には、いずれそれらを失う現実に直面し失望することが目に見えています。
人は、そのいのちを失ったら、何になるでしょうか。
悲しみに本気で向き合う人の、そのまさに最中に「神が共にある」「神の愛は離れることはない」そのことを思い起こさせてくれ、本当の希望へと導いてくれるもの。そのためのものづくり、コトづくりをしていきたいと強く思わされました。