日本全国がサッカーの勝利に沸いている様子が報道されていました。
度重なる努力と研究の末に、辿り着いた勝利は素晴らしいことだと思います。
「どうして勝利できたのか」について、解説員が緻密な分析をされておりました。
私はほとんどテレビを見ないのですが、偶然その試合の場面を見て
唯一印象に残ったのが、日本の得点のきっかけとなった、コロンビアのハンドの反則で退場となった選手の、退場の時の顔です。
ものすごい焦り、重責・・なんとも言えない辛そうな顔をされていました。
その直後には、そのチャンスに沸く日本中の観客の熱狂的な声援の様子。
ルールだから仕方ないとはいえ、誰もが犯す可能性のある、たった一度の反則で
全世界が四面楚歌状態になることの恐ろしさ。
たった一度の過失で「もうお前は必要ない」と判断され、退場させられる現実。その事実を狂気の沙汰のように喜ぶ人々。
世の中の縮図を見た気がしました。
サッカーが好きな方からすれば、当然の一コマなのでしょうが
たまにしか見ない私にとっては、その彼の家族・友人のことを思った時に、どんな気持ちになるだろうか・・と考えてしまいました。彼がそのことでサッカーをやめてしまうようなことになったら、本当に残念です。
姦通罪で処刑されることになっている女性に対して、律法学者から判断を求められたイエスが「罪を犯したことのない者が、この女にまず石を投げなさい」と語られました。そうすると、一人また一人と去って行って、最後はイエスしか残らなかったという話が聖書に記されています。
群集心理が働く時、人は一斉に石を投げることができてしまいます。インターネット上では、石を投げた記憶すら無く、クラスター爆弾を投下することも可能になってしまいます。
大事なのは、私が、どうするのか、ということではないでしょうか。
石を投げる側に立つのか、石を受ける側に立つのか。
売上、利益なのか。それとも善、愛なのか。
利益がなくては社員を守れないのは当然だと考えれらえますが、利益があっても善・愛はついてきません。
逆に善・愛を出発点としていれば、皆で利益を上げる方向に向かうことができます。神が利益を予想もしない方法で導いてくださいます。スポーツにおいても同じではないでしょうか。
ブラジルのゴールキーパー、ウェヴェルトンが五輪決勝戦で延長戦のPKで守りぬいた時のコメントが印象的ですね。
「神がぼくを祝福してくれた。愛する祖国よ、金メダルはぼくたちのものだけど、栄光は神にあります。ネイマールは、ロンドン五輪で銀メダルだったことと比較して、神がネイマールに2度目のチャンスをくれたと話していた。神は皆を愛するように彼を愛している。」