特にこの11月の日本海、曇り空に雨、吹き付ける風。自分にはどうにもできない現実。なぜ・・という言いようのない憤り。そのような思いが、螺旋のように心の中に渦巻いていきます。
どうしても上を向けない時があります。人の慰めの言葉は、脇を素通りしていきます。
この日曜日、また今日、重ねて各方面から「『喜びなさい』は神様の命令です」と教えられました。
特に、最初は偽りと思っても、まず身の回りのことに感謝を捧げること。空気、水、食物、雨・・また、たとえわかっても分からなくても聖書にふれること。
それを繰り返しているうちに、心に光が差してくる、というのです。
そのサイクルに入る一歩を、何とかして踏み出す。それが一番の課題なのでしょう。
もしかしたら、それは、もうこれ以上底がない、というところまでの悲しみに落ち込むこと。そして、そこから、他に行くところがなく、悲しみの底に足をつけて、踏み出すというより、地についた自分の本当の姿を知る。人生とはそういうものかもしれません。つらいですが・・
そのときに、誰かの支え、導きが備えられていたら・・
たとえその時、とても受け取れる状態でなかったとしても、拒絶したとしても・・時が来れば、それが良いものであれば、知らず知らずのうちに、栄養となり足を立たせ、前に向かって歩く力になるのでしょう。逆に言えば、それがなければ、いつまでたっても、抜け出せません。
種を蒔き続ける作業は、本当に骨の折れる仕事だと思います。
でも、それを諦めてはいけないのですね。一番怖いのは、種を撒いているつもりになってはいるが、そもそも畑にいっていない、ということ。種を蒔くということは荒地を耕し、自ら泥まみれになって、雨と土埃をかぶり、疲れきるまで働くことのはずだが、気がつくと、心地よいスポンジの中でプランター水耕栽培しかできない自分がいたりして。ノウハウだけはいっぱい溜まっているのに、頭でっかちのゆえに、自分のためにしか種をまかない、世と隔離した、愛のない人生になってしまっていないか。
その反省のためにも、「喜べない日」が備えられているのですね。喜べない日があるからこそ、それを喜びに変えることの価値を知るのだと思います。