汐留から浜離宮庭園を望む。築地市場は無くなってしまった。
2013年5月に第1回の天上の音楽を開催した浜離宮朝日ホールが、眼下の茶色い建物だ。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。〜父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ12:51-53)
その時が来た。
真に十字架を背負って、イエスの御跡を歩もうとする時
そこには「決別・対立」がある。
「だからキリスト教は危険な宗教だ」と揶揄される。
これは単に自分の信じる宗教が絶対で・・・といった、人間の頭で理解出来る外面の話ではないと感じる。自分で十字架を担って歩んでみよう、とした者にしかわからない感情だと思う。
何との対立か。
自我だ。
すべての美しいものや愛でるべきもの、優しい言葉がけ、思いやり、理想が、「暗黒」にしか感じられなくなる時が来る。
それが十字架に歩む道だ。
人はみな「自分」がかわいい。
自分の可愛さから出る愛の言葉は偽りだ。
だから対立を生む。ひとつとなって歩もうとすればするほど、そこには対立がある。
それは各々が「己との対立」そして「神のいのち」に、真にひれ伏して生きられるか、を問われる、単に恵みを喜んで受けるだけ、ではない、もう一つ次のステップだと思う。
しかし「目を上げていなさい」。
イエスの歩みをなぞる時、復活の希望のみが、その苦しみを耐える力だ。聖餐の陪餐によって力を得なければ、とてもこの世の常識では乗り切ることはできない、孤独な戦いだ。