「今を輝かせる生き方」について、さまざまなコーチングや、人生哲学の本が出ています。
「30代にやるべきこと」など、時間を限定した本もたくさんあります。
これらを「法則」や「論」としてまとめたものも数多くあります。
私も以前はその類の本が好きで随分と読みました。
様々な方の人生を分析して出てきた結論には、とても客観性があり、説得力があります。
しかし、高齢者の方々や病を持つ方々と関わる中で改めて思わされるのは
「すべてのことには時がある」ということです。
もうこれ以上絶対に良くならないということが分かっている病気の中にあったり
昔できたはずのことができない、という焦りの中にある時に
「自分のいのちを輝かせる」とはどういう意味を持つのでしょうか。
過去を振り返り、考えれば考えるほど
もうどうすることもできない自分の運命を呪いたくなっても不思議ではありません。
ものの見方を変える、自分の人生の棚卸しをする、まず行動してみる・・
それはまだ元気な人には良いでしょうが
生死の境と戦わねばならぬ人々にとって、それは厳しいことです。
何も体の限界だけではありません。
虐待や極端なプレッシャーの中にあって、霊的に「死にかけている」人々は、全く同じだと思います。
どんな方法であれ、立ち直れる人は、強い人です。
でも、神は、弱さを素直に認める人を求めています。
人は必ず最後には、自分が自分の力で絶対に越えられない、死という壁に、否が応にも向き合わねばならないのです。
美しく咲く花を「ちょっと家にあったら美しいな」という気持ちで、花をもぎることに、身を切り裂くほどの痛みを感じる人がどれほどいるでしょうか。
それは、花にとっては、生の全盛期から突然の「死」への移行です。
そのことを、真剣に考えたことがあるでしょうか。
人にとって本当の意味で「いのちを輝かせる」とは
単に自分の人生を、有意義で豊かなものにする、ということに限りません。
たとえ死を目前にした身であったとしても
かわらず輝くことができる、それは自分の力では不可能なことです。
本当の意味で、それを知ること。
そこに神の力を見出し、そこにすべてを委ねていくこと。
自分の得意、不得意、体力、気力・・・それらすべてを失っても、なお自分がその場にあって、喜んで生きられること。
それこそが本当の「いのちの希望」だと思います。
先のもぎられた花は、寸分も疑うことなく、最後の瞬間まで、これを実践しているのではないでしょうか。
だれをも恨まず、ただ美しく咲き続ける。
人間が行う訓練は、人の良いものを伸ばすことです。
しかし、神が行う訓練は、人の「力」を取り去り、人が神に頼り、神の良いものを引き出せるようにすること。
その理解をもとに、どんな時にも変わらない自分の中の輝きを見つけるためのステップを、改めて考えています。