2017.03.27

「たまたま」の不思議

IMG_2672新潟の冬の名物、白鳥ももう旅立つ時期です。

白鳥が家族で飛び立っていく姿を、あちらこちらで見ることができます。

 

「たまたま」という言葉を、わたしもよく使います。

たまたま上手くいった、たまたまチャンスに巡り合った・・

「それは努力していたからチャンスをつかめたんだ」という話が良くあります。

一方で、たまたま不幸な目にあうこともあります。

 

昨日は東京の華やかできらびやかなステージで演奏する機会がありました。

出演者はみな派手な衣装に身を包み、スポットライトを浴びて輝いていました。人生の中でこのような経験ができることは素晴らしいことだと思います。

一方で、帰りの道のり、冷たい雨の降る中、路上で毛布にくるまって寝ている幾人の方々と出会いました。

運が良いから、たまたまステージに登っているのでしょうか。

運が悪いから、たまたま住むところを失ったのでしょうか。

 

現実は、誰だってスターになれるし、誰だって明日から住むところを失うことだってあり得ます。

 

それを私達は「たまたま」と表現します。

 

しかし、たまたま、白鳥が毎年同じ新潟の畑に来て、たまたま3月に揃って飛んで帰るでしょうか?

 

たまたま、白鳥は、6000Kmも離れたこの食糧のある新潟の地を見つけたのでしょうか?

 

世の中には、「たまたま」というにはあまりに不思議な出来事が、非常にたくさんあります。

人体のことを知れば知るほど、その「たまたま」がどれだけ不思議な形で生命維持に関わっているかがわかります。

 

 

そのようなことを思い巡らす時、

どんなに運命的に思えても、努力の結実と思えても、どんなに占いや予言で言われていたとしても、

「たまたま」は何一つ存在しないのだ、ということが身に沁みてきます。

 

 

私達には分かり得ない、人知を超えた神の計画がある。

 

神の摂理に生きる、というのは被造物全てに言えることですが、それだけだと人の人生は、ものを考える必要がなくなります。

人間は動物の中で唯一、自分でものを考え、決断し、行動する「人格」が与えられています。だから、その人格を自分の中の基準に従って確立させるか、神の愛の内に生きるか、その選択も自分がしなければなりません。

 

「たまたま」という概念は、その選択自体を放棄している、ということに気がついた時、私は愕然とした思いになりました。

 

昨日のショー MCの中でサウンド・オブ・ミュージックのマリアのセリフに「神様は、ドアを閉ざす時、一つだけ窓を開けておく」という言葉がある、という紹介がありました。

別の言い方をするならば、「その容易でない小さな窓にたどり着かせるために、神は通りやすい大きなドアを閉ざすことがある」ということではないでしょうか。これは決してたまたまではありません。

たしかに、もがき苦しんで小さい窓を見つけるのは自分です。しかし、その窓を見つけても、見つけなくても、人生はいつか終わりを迎えます。

 

そうであれば、私たちがすべきことは、自分の力でもがく前に、静まって、神が用意した「小さい窓」が何か分かるよう「神に祈り求める」ことではないでしょうか。

その窓に向かう道は往々にして、この世の経済活動や出世とは直線的にリンクしないものです。むしろ、持っているもの、与えらえていると思うもの、それらを一旦全て解き放たなければ、見えないことがあるのではないでしょうか。

 

私達は「目を覚ましていなければなりません」。上手くいっている時ほど、そうではないでしょうか。

私達は、神の前には全く無力であり。

また自らの力、経験、能力が無にされた時にこそ、私達は神の愛という翼を得て

「わたし」という殻の限界をこえて、高く舞い上がるものとされる。

 

そのことを、忘れずにいたいものです。

 

 

 


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