よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、私もこのことについて、祈って聞かれることと聞かれないこと、どうしてこの両方があるのか、というのがなかなか分かりませんでした。
聖書の中に、次のような箇所があります。
弟子たちはイエスに尋ねて言った,「先生,この人が生れつき盲人なのは,だれが罪を犯したためですか。本人ですか,それともその両親ですか。」イエスは答えられた,「本人が罪を犯したのでもなく,また,その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが,彼の上に現れるためである。
そうして、イエスは癒しのわざを行いました。癒された人はたいそう喜んで、当時の宗教的有力者の前でもはっきりと「もしあのかたが神からきた人でなかったら,何一つできなかったはずです」と告白しています。
この盲人は「こじき」だったと書かれています。宗教的な日課を送る人ではなかったと思いますが、それでも癒された、という事実が、何を物語っているのでしょうか。
神はどんな人でも、信仰深い人であろうとそうでなかろうと、等しくすべての人を愛しておられて、そのことに気づいてもらいたいと思っている。
これがすべての目的だ、ということが、最近になって、やっと少しずつ分かってきた気がします。
私たちは、苦しい時、痛みがある時に、その状況をとりのけてもらうように祈ります。それも必要なことだと思いますが、最終的に神が一番問題としていることは、「私たちがどれだけ神の愛に気付くか」ということ。
そのためには、本当に辛いと思える試練を神は用意されることもある、ということが聖書の数々の事例からもわかります。しかし、物質的なだけでなく、霊的な助け手が、その最中を通る人のまわりに、神は必ず備えておられます。もしいないと感じるならば、祈ればそれが必ず与えられていることがわかります。
そこに気付くかどうか。受け取れるかどうか。
これを、神はずっと待っておられるのではないでしょうか。
神は愛なので、決してこれを強制したりしません。ただ忍耐強く待ち続けるのみです。
花のいのちは、幹・根・そして水につながってこそ、維持されます。どんなに美しく見える花も、切り離されては数日しか持ちません。
神の愛といういのちにつながっていれば、みずみずしく輝いて生きられるとともに、自分が枯れてもつぎのいのちへと、そしてさらに多くのいのちへとつながっていきます。