2017.03.17

神は便利屋?

img_0961データを整理していたら、昔に撮った花の写真が出てきました。

よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、私もこのことについて、祈って聞かれることと聞かれないこと、どうしてこの両方があるのか、というのがなかなか分かりませんでした。

 

聖書の中に、次のような箇所があります。

弟子たちはイエスに尋ねて言った,「先生,この人が生れつき盲人なのは,だれが罪を犯したためですか。本人ですか,それともその両親ですか。」イエスは答えられた,「本人が罪を犯したのでもなく,また,その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが,彼の上に現れるためである。

そうして、イエスは癒しのわざを行いました。癒された人はたいそう喜んで、当時の宗教的有力者の前でもはっきりと「もしあのかたが神からきた人でなかったら,何一つできなかったはずです」と告白しています。

この盲人は「こじき」だったと書かれています。宗教的な日課を送る人ではなかったと思いますが、それでも癒された、という事実が、何を物語っているのでしょうか。

 

神はどんな人でも、信仰深い人であろうとそうでなかろうと、等しくすべての人を愛しておられて、そのことに気づいてもらいたいと思っている。

 

これがすべての目的だ、ということが、最近になって、やっと少しずつ分かってきた気がします。

私たちは、苦しい時、痛みがある時に、その状況をとりのけてもらうように祈ります。それも必要なことだと思いますが、最終的に神が一番問題としていることは、「私たちがどれだけ神の愛に気付くか」ということ。

 

そのためには、本当に辛いと思える試練を神は用意されることもある、ということが聖書の数々の事例からもわかります。しかし、物質的なだけでなく、霊的な助け手が、その最中を通る人のまわりに、神は必ず備えておられます。もしいないと感じるならば、祈ればそれが必ず与えられていることがわかります。

そこに気付くかどうか。受け取れるかどうか。

これを、神はずっと待っておられるのではないでしょうか。

神は愛なので、決してこれを強制したりしません。ただ忍耐強く待ち続けるのみです。

 

花のいのちは、幹・根・そして水につながってこそ、維持されます。どんなに美しく見える花も、切り離されては数日しか持ちません。

神の愛といういのちにつながっていれば、みずみずしく輝いて生きられるとともに、自分が枯れてもつぎのいのちへと、そしてさらに多くのいのちへとつながっていきます。

 


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