「無償」ということについて「教皇フランシスコのことば」という本に非常に示唆に富む一言が書かれていました。
「どこかで『恵み』は売られていますか?・・・(中略)・・・恵みは売買できません。無償でいただき、無償で譲るのです。そして、これがイエス・キリストの恵みです。」
近頃、無償での提供を活用したマーケティングがひとつの手法として取り上げられます。
人の側から見ると、恵みはどこまでいっても「戦略」になってしまいます。Give & Takeの範疇を出ないというか。宗教によっては自分が救われるための「道」という捉え方もあるでしょうが、それとてGive & Takeの範疇かと思います。
自分の人生をmissionとして捉えるか、それとも自然発生的なものとして捉えるか、これは死生観にも大きく影響してくるものですが、この究極的な答えはやはり自分の「死」を正面から見つめることでしか答えが出ないのではないでしょうか。
昨今の手軽にSNSで人が繋がって、様々な善意のあるアクティビティが生まれる世の中では、自然発生的な生き方もまた「あり」という風潮が主流になってきているかもしれません。むしろmissionとして人生を抱え込むことの重さが、時代錯誤的に見られる風もあるかもしれません。
「自分が一番しあわせと感じられることを選ぶこと、それが魂の一番喜ぶことだよ」ということがスピリチュアルなメッセージとして届けられることもあります。
しかし、人生の中にはしあわせと感じられないことが往々にして起こります。絶対に理解の出来ない事柄が自分を苛ませる時、それは「魂が喜んでいない、だからこの問題から離れるべきだ」と単純に片付けることができるのでしょうか?
塩狩峠の長野政雄のように他人の命を救うために自分の命を捨てること、また中村医師のように人生全てをアフガニスタンの復興のために捧げること、向き合いたくない難題・人に向き合っていくことは、「自分がしあわせと感じられることを選ぶ」という選択だけでできることでしょうか?絶対無理だと思います。
「そういう損な生き方はやめよう」そんな風潮が聞こえてきそうです。
しかし「無償」の本質は、「売買できない」つまり「損得が存在しない」ことだ、と教皇の言葉に教えられるものがあります。
損得とは、計算、自分なりの考えがあってのことだと思います。それが存在しない、ということは、自分を放棄する以外ありません。積極的か、消極的か、の差はあるにせよ。
なぜそれができるのか。
自分が「死以外に選択がないほど壊れ切る」経験を通るからだと思います。
自然発生的に「損をしない」生き方を選んでいれば通ることもなかった経験かもしれません。そこを通らせたのは「厄病神」でも「悪運」でもなんでもなく、「神の恵み」だと思います。
しかし、そのような経験を一度しても、やはり私もまた「自分のやり方」で進めようとしてしまいます。
そうして、また叩きのめされる。自分の計算が、全て吹っ飛ぶ。
何一つ、世に利益を還元していない・・
この繰り返しで、やっと「無償」の意味がなんとなく分かってくる・・
でも最終的には、死ぬまで分からないかもしれません。
でも、分からないながらも、その「神の恵み」にすがりつく、
その自分との戦いの繰り返しが、人生ではないでしょうか。
その自分の欲深さ、不甲斐なさは、神に救っていただかなければ、自分は死ぬしかない。そうやって毎日、死を経験することで、自分の中にある「神のいのち」が、今日為すべきことをさせてくださる。
そんな祈りの戦いの歴史が、結果的に神の恵みを現していくのだと思います。
人がそこまで損を選び取った背後に、何があるのか?という純粋な疑問から。