2016.10.26

才能という罠 - The trap of talented person -

img_1701先日の北京にて。

インフルエンザを貰って帰ってしまったらしく、今週は自宅安静です。

 

成功ということについて、幾度となく考えてきました。

中国人にとっての成功は、おそらく「繁栄」でしょうが、

問題は「何を持って、どの地点に達したときに、人は成功と感じるのか」ということです。

 

人には誰にでも、何かしら「才能」が与えられています。

どう考えても平等でないことは誰の目から見ても明らかです。

では、多く才能をもらった人が、より成功するのでしょうか。

 

才能は「神様からもらったもの」であることは否定できないと思いますが

だからといって才能を持つ人が、神様に選ばれ、成功を約束される人なのでしょうか。

 

自分が自分の才能を「才能だ」と認識しているうちは

自分の力に頼り続けることになるでしょう。

そこに神の働く余地はありません。

 

むしろ、すべてを取られ、

自分の才能もプライドも名誉も肩書きも、健康も、仕事も、収入も、すべて失い・・

自分は神に助けてもらわなければ「何もできないんだ」というところに

本当の意味で立つこと。

それこそが、成功の出発点ではないかと思います。

 

いや、

人は死に際し、全員が否が応でもそこに立つはずです。

それが早いか遅いか。それだけの違いではないでしょうか。

 

それが早ければ早いほど、

残された人生を、自分のためでなく

才能も、体力も、財産も、すべてを神の愛の働きのために

用いられる期間が長くなります。

 

しかし、私たちは弱いので、

すぐにまた虚栄心、財産の不安、などにおそわれます。

そして、様々な巷にあふれるノウハウ情報に、また振り回されてしまいます。

本当の意味での「成功」とは

その「底」に、毎日毎朝戻り、

「今日、できることをさせてください」という祈りの中に毎日立つこと。

それを継続すること。

謙虚に仕えるものとなることではないでしょうか。

 

よく「思いを一つにすること」「ビジョンを統一化すること」

が成功の条件として語られますが、

そこに騙されてはならないと思います。

その動機が、名誉や社会性から出ているのであれば

どんなに多くの人間が賛同しその素晴らしい(と思える)目的を達成したとしても

その事業はいずれバベルの塔になってしまいます。

 

むしろ、祈りのうちに

本当に神が求めることは何か、

それを模索してゆく必要があると思います。

どんなに無理難題で、意味がないように思えることでも

また人の目から見て、無謀で中断する計画と見えても

それが本当に神の願いであるのであれば、実現します。

そうでない場合は、事前にそうでないことが明確にわかります。

その神の側からの動機をしっかり内に持つこと、

これも大事な成功の要素ではないかと思います。

 

 

 


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