この時期になると、新潟には「天のはしご」と呼ばれる、美しい光の筋が見られるようになります。時には、あるスポットに向けて天から光が注いでいるように見えることもあります。
天気予報が曇、雨となっていても、空が広いため、ある部分が晴れている、なんてこともあります。
「新潟の冬はずっと鉛色の空で鬱になってしまうよ」と事前に何度も聞かされていたのですが、「希望」とはこういうものなんだろうなあ、と思うようになりました。
希望は、光と同じく、さんさんと注がれなんの障害もない時には、それがあることすら気がつきません。むしろ、「患難」という影、雲に覆われ、その中で忍耐する、だからこそ、本当の「希望」を知ることができるのではないでしょうか。
目黒でスタジオを作った時もそうでした。元々は南も東も全面窓の開放感あるスペースだったのですが、むしろいろいろ目に入りすぎて落ち着かない感じでした。施工時に、あえて南の窓をつぶし、ガラスブロックでわずかに光が入るだけにしてしまい、東の窓は1/3に縮めてしまいました。そのおかげで、とても光を感じる空間になったのを覚えています。
真の希望は、今日明日、こうしたいとか、願いが叶って欲しい、というような次元のものではなく、「神が共に歩んでくれること」を疑いなく信じられることではないかと思います。
そのためには「理由が分からなくても神にのみ信頼する」という「決断」が必要ですし、その思いの純度を上げていくためにはどうしても「患難=自分ではどうにもできない困難」が「忍耐」するほどに必要とされるのでしょう。
理不尽な忍耐ほどつらいものはありません。その忍耐を、自分の内に向けると、鬱になります。自分の外に向けると、暴力になります。神に向けると、練達となりますが、そのためには「神との交わり」が先になければ、そこに向かえません。
一日の初めに、祈りと共に神との関係を回復すること、それなくしては「正しい忍耐」を乗り越えていくことは不可能ではないかと思います。
それから、祈り合う友はかけがえのない存在だと思います。解決は分からないけれども一緒に祈ること、共に歩むこと、できることは一緒にやってみること、それは本当に心強いことです。「永遠の神の愛は我らの出会いの中で身を結ぶ」(君は愛されるため生まれたの歌詞より)のだと思います。