梅雨がいよいよ来たようです。
「本物」とは何か、ということを考えたとき、次のような条件を備えているのではないかと私は思います。
1)朽ちない
2)時代や状況に左右されない
3)人の評価に影響されない
まず、「朽ちない」という時点で、一人の個人はどう頑張っても、そのままでは本物に成り得ないでしょう。
人間は、実に弱いものだと思います。人の目を気にしないような本物を作りたい、そうはいっても生活があるから世のニーズに応えなければ・・そう考えて、狭間で実に悩みます。
私自身も、自分だけが良い思いをして、助かるために、どれだけ沢山の人や状況を見殺しにしてきたか・・どんなに悔やんでも過去の事実は変わりません。改めて本当に自分の「本物でなさ」を思い知らされます。
そんな自分でも、何とかして「本物を作りたい」という思いだけは、消え去る事がなく、どうしたら良いか、更に悩みます。
「安らぎの音楽を作る事で、社会に貢献します・・」等という事は、とても今の私のような者には言えることではありませんが、何とかしてその私を生かし、立たせて下さっている力の源を、力が必要な方の所に伝えていきたい、そう思います。
例えば平社員の私が失態をして取引先に大損をさせた時に、私が相手の会社の社長にお詫びにいっても取り合ってくれません。ある意味私の失態を痛みを持って受け止めてくれる、私の会社の社長に同伴してもらわなければ和解が成り立ちません。
でもその社長の行動で取引先との和解が成立したとなれば、私は本当に感謝し「人にも同じようにしよう」と思うでしょう。
これこそ「本物」ではないでしょうか。
罪人の贖いは、正しい人の犠牲によってしか成り立ちません。
でも、そこから人はいのちを得ることができるのもまた事実です。
三浦綾子さんの「塩狩峠」という本には、コントロールを失った電車の乗客を救う為に自ら電車の下敷きになり乗客のいのちを救った青年の実話が記されています。青年はこの「いのちの贖い」を心から知っているからこそ、他の人のいのちの贖いが出来たに違いありません。