誰一人いない静かな公園で、晴天の中鳥の声が響き渡っています。
数百メートル歩くとそこは砂浜。素晴らしい環境です。
アフターコロナの「新しい生活様式」についてさまざまな意見があると思います。
メディアでは「今できる取り組み」として、新しい試みや変化を乗り切るための様々な施策が日夜紹介されています。
そういう情報の嵐の中で、世の中から取り残されて何もしていない自分がまるで負け組のように思えてきます。
しかし、この5月の素晴らしい自然の中に身を置くとき、
また振り返って、与えられていることや身近なことに目を注ぐとき
変化や行動だけが全てではないと思わされます。
毎朝このチャペルの木の間の小道を通って、保育園に子供が集まってきます。
こんな美しい絵を1年前に誰が予想できたでしょうか。
保育園のエントランス脇では、ツバメが一生懸命巣を作っています。子供達は毎日ツバメを眺めて、ツバメの声をバックにお昼寝をしています。こんな幸せな光景を誰が予想できたでしょうか。
園庭には花がいつも欠けることがなく、教会の有志の方々がとても美しく花を守ってくださっています。
奥の小・中学生向けのアフタースクール棟も、9月の完成に向けて着々と工事が進められています。
どれ一つ取っても、奇跡の連続で
綿密な計算と努力の末にできた、というよりは
そうせざるを得なかった、他に道がなかったところを、ただ導かれるままに信じて必死の思いで歩んでいるうちに、気がついたら一つ一つが備えられていた、という感じです。私の望んだ、思い描いた人生設計に、こんなプランは当初どこにも備えらえていませんでした。
ただ「この愛のある保育の灯火がどうして消えてよいでしょうか」というその嘆くような祈りだけでした。
人の思い、計画、そのための労苦は、コヘレトの言葉の通り、本当に空しいと感じます。
何十億のプロジェクトを成し遂げたとしても、やがては忘れ去られ、いずれは取り壊しのときがくるでしょう。受け継いだ者の間には内部分裂もあるでしょう。一時、富をもたらすかもしれませんが、風の如く過ぎ去るほんの瞬間でしかないことを思わされます。
新しい生活様式が、自分をアピールし、自分の将来を自分の力で切り開くことの延長であったとしたら・・
その行く末は、弱肉強食の餌食となって一生の労苦の末に、死を迎えることになってしまうのではないでしょうか。
自分の力に頼るのでなく、むしろ身勝手な計画や歩みを今改めて振り返り、本当になすべきことは何なのか。何のために今生かされているのか、そこを静かに見つめ直す時期なのではないかと思います。
私も今アフタースクールの本当になすべき仕事は何かについて、改めて思いを巡らせています。時に適って、必要な人と生徒が備えられるものと信じて。