2015.12.27

納得と確信の違い - convincing vs confident -

IMG_2261今日の新潟は、嵐の1日でした。

そんな中にも、すっきりとした晴れ間があったり、雪がちらついたり。

本当にドラスティックでした。

そんな天気の時は家の滞在時間が増えるため、普段は見ないテレビ番組を目にする機会が増えます。いろんなコンサルタントの方が、年末年始の乗り切り方に対して「そうだなあ〜」と思わず頷いてしまうような素晴らしいアドバイスを語っていました。

納得とは、誰かの言い出した情報が「その通りだ」と理解できることだと思います。それが真実であるかどうかはともかく、今の時代背景とか、世間常識とかからすると、合点がいくことなのでしょう。それがなおさら「何百万人が支持!」となれば、納得の度合いも増すものです。得を納める、と書く通り、その情報によって、あらゆる意味で私たちが「得をする」からです。

たとえば、この寒風吹き荒む新潟の映像とともに「冬は新潟に行かない方が良い」という情報が流れたとしたら、様々な事故を未然に防ぐでしょうし、それは「納得」という情報になるかと思います。

一方で、確信はどうでしょうか。

たとえ世間が180度反対のことを言ったとしても、私以外に理解する人が一人もいなかったとしても、私の内側に「確固たる信頼」のホームポジションがあり、時代や常識にも左右されないこと、それが確信ではないか、と私は思います。

たとえば「新潟の厳しい冬は、かならずいつか終わり、美しい春が訪れる」これは確信です。この冬空の下に何時間も立たされたら、普通の人間に納得は無理です。でも、確信は持つことができます。

確信を持つことで、目に見える得はしないかもしれません。むしろ、どちらかというと傍目には、地味で、損に見えることの方が多いかもわかりません。その確信のゆえに、友達や仕事をなくしてしまうかもしれません。

だからこそ、確信を保ち続けることは、とても難しいと言えるのではないでしょうか。

 

人から「独りよがりだ」「そんな生産性のないことはやめておけ」「しっかり自分の人生を見つめ直せ」・・周りの「納得」させようとする声は、確信を持った人の周りにはどんどん大きくなっていきます。

では、どうやって、その確信が思い込みでなく、真実だ、と知ることができるでしょうか?

 

答えなどはないと思いますが、ここからは、私の持論です。

 

一つ目のポイントは「利害を超えて協力してくれる人々がいるかどうか」。

もし真実なことでなければ、その確信は利害に基づくものだと言えるでしょう。そうであるならば、いずれ人は得がないと「納得」した時点で離れていくはずです。

先の例で言えば、新潟には雪国ならではの助け合い文化があります。雪の積もった高齢者のお宅の雪を、近所の若者が代わりに除雪することはよくある光景ですが、自分の体が思うように動かない山間部の高齢者の方にとって、この確信は、そのような若者の存在によって、より揺るがないものとなることでしょう。

仕事をする上でも、スピードや効率、価格だけで取引先や下請けを選んで進めているプロジェクトは、時代とともに必ず消え去ります。それを追いかけるのも一つの生き方ですが、どんなに「このプロジェクトは世界に羽ばたく成功するプロジェクトだ」と声高に叫んでも、確信を得ることは難しいと言えます。むしろ、その声で自分を納得させるのが関の山でしょう。「いつ、自分が切られるか・・」その不安が常に、心の中から消え去ることがありません。現代人はほとんどこのサイクルではないでしょうか。

 

もう一つのポイントは「静まった時、心に平安があるかどうか」。

これは、上の例の対比でもありますが、決定的要素です。真実でなければ、静まった時に、逆にそわそわします。もし確信が自分のコンプレックスの裏返し等であれば、「怒り」「嫉妬」「負けず嫌い」という感情が必ず顔を出します。その戦闘態勢は、一時はうまくいくかもしれませんが、長く持ちませんし、うまくいけばいくほど、取り返しのつかない失敗に至ってしまうことがあります。タレントや経営者が逮捕されるような犯罪を起こしてしまうのは、ほぼこのケースではないかと思います。

それが見えない時には、無理に時間をとってでも、静まる必要があると思うのです。そして、周囲のあらゆる雑音を排除し、自分の心の平安を再確認することが必要です(新潟の冬は、そのために適していると思います)。

 

私の場合、若くして亡くなった2人の方が自らの命を通して、私に使命を託してくださいました。その思いを、決して忘れることができません。年の瀬にあたり改めて確信の原点を見つめ直したい、そう思いました。

 


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