今日は気持ちよく森の舗装された散歩道を歩いていましたが、
途中で、くまんばちに追いかけられ、散歩道を追い出されてしまいました。
戻ろうと思っても、「ここには私達の巣があるから、右にも左にも行ってはダメ」とばかりに、入れてもらえません。
仕方なく、海辺の道を歩く事にしました。
中には舗装されていない、本当に茂みの中を横切っていかなければならない場面があります。
横には舗装された美しい道があるというのに、なぜわざわざこんな困難な道を歩く事になるのか・・そう思いながら、自分の人生と照らし合わせて考えていました。
真っ当に勤め人として引かれたレールを歩んでいれば、今経験しているような困難にはきっと合わなかっただろうに・・など考えても仕方のない事を思い煩いながら、何とか助けと導きが与えられるように、祈りながら進んでいました。
すると、見た事もないような、美しいハマナスの群れが目に飛び込んで来たのです。
このハマナスの傍には道がなく、誰も歩いた事がないだろうから、それはそれは見事な茂みでした。カメラが単焦点レンズだったので群れが撮れないのが残念ですが・・
これを目にして、はっと気付かされました。
そうか、道なき道だからこそ、普通では経験できないような恵みが沢山あるし、そこに行かなければ会う事もない人たちに会えるし、またそこに出て行く為に、今こうして「道なき道」に遣わされているのだ・・と。
過疎の村には新しく訪れる人がなかなかいないので、村が寂しくなってしまいます。
これは何も物理的な過疎だけでなく、心の過疎という問題にも当てはまると思います。
そこに遣わされていくために、今の仕事があるのだ、と思わされました。
同時に頭に浮かんで来たのは、「神の道具に成り切る事が出来るなら、必ず生かされ、必要は与えられる」という事でした。
確かに、ハマナスは、誰が水を上げ、肥料をあげたわけでもないのに、どこのハマナスよりも立派に咲いていました。
「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子さんの著書がありますが、私自身も、自分で勝手に妄想し思い悩む「自分の計画」人生を悔い改め、自分の歩みを我がものとせず、委ね切るものになりたい、と思いました。