春の光を浴びて輝く福島潟。
本当に美しいです。入り口の菜の花に圧倒されがちですが、奥の学習園の池のあたりが、しずかでとても好きです。今はサワオグルマがきれいです。
新年度のドタバタも少し落ち着いてきました。しかし連休明け5月中旬まではまだまだ気が抜けません。
今朝ヨハネ3.21を読んでいてはっとさせられました。
日本語では気づかなかったのですが、「光と善い行い」の話ですが、光が悪い行いを明るみに出す、という話は簡単に分かるのですが、悪い(というか自分中心な)思いの行いや事業は意外と成功することもあります。
資本主義の中ではまず自社が最大の利益を上げるよう努力するのが、従業員の幸せを考えても当然だというのが常識だと思います。この世の目線では、悪い行いのほうが輝いていることすらあるのでは?
英語版を読んでいてその部分で"light may show that what they did was in obedience to God"と書かれていることに、ひらめいたものがありました。
光が「善い行い」そのものを照らすわけではない、ということです。
もし光が「善い行い」を照らすなら、神に導かれて(と思って)行動を起こし結果うまくいかなかったことはすべて「無駄」「悪い証」「思い込み」「浅はか」「大口を叩く馬鹿者」ということになります。
光が照らすのは、「神への従順だ」と書かれています。英語のニュアンスからすると、「服従する姿勢そのものだ」ということです。
事実、十字架が示したものは、この世的には惨めな死でした。
しかし、「ただ神に服従する姿勢」は、誰の目にも明らかでした。理不尽だからこそ、より明らかでした。
状況に暗雲が立ち込め、絶望の中で、それでも必死に神を求め、服従して歩み続ける。病や、過失など、一生その重荷を抱えていかなければならないとしても、それでもただ黙々と心の底からの謙遜を持って、服従して、毎日ひとつひとつできることを積み重ねて、歩み続ける。
その歩む姿勢以外に、光が照らすものはないのかもしれません。
重荷を担うことを続けるには「傷を舐め合う」ような、この世的な慰めは何の役にも立たないし、そもそも人に言えない苦しみだからこそ誰にも分かち合いようがありません。
自分ではどうしようもない、できない・・という弱さの中に「それでも」神を見上げること、それこそが「obedience」だと思いますが、その力を個人的な祈りの中で充足する、そして共に祈れる友を持つ、それに尽きると思います。