ひまわりは見るだけで元気が出て、嬉しくなります。
今日から3日間は保育園もお休み。私にとってはやっとたまりたまった課題に向き合える期間です。
今朝は5000人の給食の話を改めて読み返していました。
5000人が夕暮れになってお腹をすかしている時に、
イエスの弟子たちが「皆を解散させて宿をとらせ、食べることができるようにしてやってください(要するに自分たちで何とかしてもらってください)」とお願いしたところ、何とイエスからは
「あなたがたで何か食べるものをあげなさい」
という答えが返ってきます。
「そんな無茶な、私たちで彼ら皆の食事を買うのですか?手元には子供が捧げた5つのパンと2匹の魚しかありません」と弟子たちは返答します。
ところが、この後にミラクルが起こります。イエスがその5つのパンと2匹の魚を祝福して裂き、皆に配り始めると、5000人が腹一杯に食べたあと、まだ12のかごがいっぱいになる程残った、という話です。
今日改めて、なぜはじめに「あなたがたで何か食べるものをあげなさい」と無茶なことをイエスが言ったのか、はたと気づいたことがありました。
もちろん、超自然的に「パンが降って湧いた」ということもあるかもしれません。でも、それならイエスは「あなたがたが食べるものをあげなさい」と初めに言わなかったでしょう。「神に信頼しなさい。神は必要を与えます」と言われたと思うのです。
多くの群衆がそのような「人里離れたところ」に集まってきた時、今と違ってそんな簡単に、皆が家に帰ることはできなかったとすれば、おそらく皆何がしら食料を携帯していたかもしれない。でもそれを人に分け与えようと考える者はおそらくいなかった。
でも、小さな子供が、自分のパンと魚を差し出し、イエス様が神に祈りを捧げてそれを分配する姿を見た時に、「自分は何と自分勝手な考えなのだろう。自分の食事のことしか考えてないで。自分の持っているものも分け与えないと」と自然とそう思えたのでは。
そうして、皆が自分の持っているものの一部を分け与えた時に、結果として全体が必要以上に満たされた、ということではないか、と思いました。
全体とは個の集団。
一人が自分の持っているものを、神にあって捧げるならば、すべての民の必要が、神にあって満たされる。
民全体を私個人の力で養うことなど不可能。
教育の世界で言えば、私の力で子供や人を変えることなど不可能。
今日読んでいた「マザーテレサの日々の祈り」にはこうありました。
「説教によってではなく、私の手本と、神への愛と、人に与える影響力によって、あなたを伝えることができますように。私の心に満ち溢れる愛によって、まっすぐあなたに向かいますように」
一人が自分の持っているものを分け与える。
たったそれだけで、愛は始まる。
頭の固くなった大人の私にとって、それが何と難しいことか。
5つのパンと2つの魚を、イエス様が天を見上げて祝福して裂き、という言葉には
裂かれて分け与えられる自分の体、にもつながるものを感じます。
この箇所の直後に
「わたしについてきたいと思うなら、1)自分を捨て 2)日々自分の十字架を負い 3)そしてわたしについてきなさい」と続きます。
この箇所だけ読むと「教会に足を踏み入れたらしんどいことばかりでは・・」
となってしまうのでしょうが
この給食からの流れで見ると、もっとシンプルで「あなたの身近にまず、あなたの一部を分け与えられる人がいるでしょ。その「自分のいのちは自分で守る」と小学校で夏休み前にいつも校長先生に叩き込まれてきた、その頑なな考えを捨てなさい」と言われている気がします。
これから目指すアフタースクールの指針をまとめているところです。
「輝くものを見出して育む」それはわかっているのですが、それだけでは何か出口がないというか、プログラムの目指す先に欠ける気がしていました。
今日そこがはっきりしました。
「自分の持っているものを分け与える」その行いの連鎖こそが
アフタースクールを成立させる肝なのだな、と。
まず私が持っているものを捧げる。
先生方が、自分の持っているものを分け与える。
子供が、別の子に、社会に、自分の持っているものを分け与える経験をする。できることをする。
保育園の子供ですら、自分のお気に入りいりのおもちゃを、年少のほしがる子にあっさりあげてしまい、自分は新しい楽しみを探しに行く光景を度々見ます。
ところでイスラエルの食料自給率は90%を超えているそうです。日本より明らかな不利な環境であるにもかかわらず・・IT化の恩恵だそうです。この新潟ですら60%台です。頑張らないとですね。