この3連休は駒ヶ根の「愛の家」に来ています。
アクセル全開で進んできたこの数ヶ月、とくにこの2ヶ月は保育園の開園やら収録案件やら共同研究やらコンサートやらで気が狂うような忙しさでした。
本当に久しぶりにその怒涛の嵐から静まる時間が持てました。
この愛の家は、様々な生きづらさを抱えた人たちが集い暮らし、私のように訪れる宿泊客と共に過ごします。
ここは10年ぶりに訪れたのですが、今村都先生はまったく変わらず飾らない人柄と優しさで迎え入れてくださり、家に帰ったような気分でした。
山のてっぺんに近いこの付近は、りんごの木がちょうど色づいてとても美しいです。
今村先生との雑談の中で、先生は「小さな成功を共に喜ぶ」ことの大事さ、を語ってくださいました。
私自身、そのことを完全に見失っていたなあ、と改めて振り返り反省しました。
ここ数ヶ月「成し遂げる」ことにあまりに切迫感を感じ(期日があったから仕方なかったのかもしれませんが)様々な周囲の状況や、人のそれぞれの歩みに心を配る余裕などなかったような気がします。
いろんな問い合わせや友人からの連絡をいただきながら放置していたものがどれほど多かったか・・と思います。本当にすみませんでした。
みんながみんな、こんな歩みをしていて幸せになるはずがありません。
事業の方向性や今後の計画など、思い巡らし、また迷い祈ることがここ最近たくさんありました。でもどんなに祈っても何も導きを得られていなかったのも事実でした。
今日、ここに来て、はたと気づかされたことがありました。
「神様は私が何かを成し遂げることを、望んでいるわけではない」
私は不覚にも、タイミングを逸して引率した子供達に何も昼ごはんを与えずに宿についてしまったのでした。にもかかわらず、今村先生はそこにある食事を次々に出してくださり、十分お腹が満たされました。
神様が望んでいるたった一つのことは、「人のいのちが救われること」。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。」(ルカ17:33)
自分が成し遂げたいという思い(というより願望)、自分の考えるスケジュール、計画、そうやって自分の「いのち」と思っているものを大事に大事にすればするほど、あなたは命を失っている・・と神様は教えてくださいました。
たった一つの大事なこと。それは「私の思いを捨て、全てを委ねること」
よく歌謡曲で「自分を信じて」と聞かされ、学校では「自立」を教えられますが、それは本当に大事なことかどうか?むしろ人間中心の迷いの道に入っていきそうな気がします。
完全に委ねた時、全て必要が備えられ、道が開かれ、そのことを通じて新たに人のいのちが救われていく。
そのことを、この愛の家の15年近くにわたる働きに、見せていただいている感じがします。
人は何かを興す時とかく、その事業性、採算性、永続性、投資効率、プロダクティビティ・・ということに目が行きますが、「神様が『もうよい』といわれたらそれでおわり」という委ね切りも、また必要なことではないでしょうか。というより、人の命は完全にそうです。
もちろん、ベストを尽くすことは必要です。病院の手術を手抜きで望んだり、十分な練習と計画なしにコンサートに臨むことは、よい働き手となるために必須と思います。
ただ、往々にして、ベストを尽くすことが「いのち」になってしまって、本来の神様の目的、たった一つの大事なことを見失う時に、人は命を失ってしまう。それが、本当に怖いことだと思います。