2016.12.22

才能は頑固の中心点 -Talent can be a center of stubborn heart-

img_0724冬空に映える福島潟。

今日は朝焼けがとっても綺麗でした。

先日、私はほんのわずか人とぶつかった際の衝撃で、どうやら中指の関節を痛めてしまったようです。日常生活では何も問題がないのですが、よりによってこのコンサートシーズンの12月に指を痛めるというのは、致命的なことのように思えます。練習しようと思えば思うほど、それができない自分に向き合わなければいけない。

とても気合いを入れて準備をした本番で、予期せぬハプニングが起こって、全てが台無し、というような思いになることは演奏家なら度々経験があるのではないでしょうか。

 

私たちはみな何かしらの「才能」が与えらえていると思います。「頭の良さ」「機転がきく」「分析力」なども才能の一部かと思います。

才能自体は素晴らしい恵みですし、収入を生み出し、多くの人を幸せにできる可能性があるということでは価値のあることだと思います。

しかし、時として神様は才能を全く予期せぬ方法で取り去ることがあります。

先日の祈り会の記事を送ってくださったものが素晴らしかったので共有させて頂きますが、創世記32章の「ヤコブの祈り」がまさにそのようです。兄の手から自分を助けてほしいと祈るヤコブに対して、神は「もものつがい」(股関節)を外されたとのこと。策略家であるヤコブを全く無力化してしまわれたのでした。

完全に自我を打ち砕かれたヤコブは砕かれた魂で「神様助けてください」という他はありませんでした。その後、ヤコブの「もものつがい」が回復した、という記事はありませんので、もしかしたら後生ずっとその怪我を抱えて生きることになったのかもしれません。しかし、そこを通して、ヤコブは神の僕となりイスラエル12部族の礎となってゆくのでした。決して己が才能、力によって、ではありませんでした。

 

私の個人的な経験で、海外のコンサートで音響のプロとして関わっていながら、どうしても理解の出来ないハプニングにより本番で音が出なくなった経験があります。自分が才能を自負しているまさにその部分で、神様は力を取り去ることがあります。

そこからが、本当の「豊かな人生」のスタートだといえるのではないでしょうか。音響がなくても、アカペラでコンサートは成立するものです。美しく見せる残響効果やバックのカラオケなどは取り去られ、生身の自分をさらさなければならなくなったとしても、そこにこそ「すべてを捧げる自分」が現されていくのではないでしょうか。そこには、自分の基準に「神への信頼」という揺るぎないものが建て上げられていきます。そこから、どんな状況にあっても、世の中がどんなに変わろうとも、恐れに一喜一憂する必要のない、喜びと感謝に満ちた生き方が生まれてくるのではないでしょうか。これは、修行や、考え方の訓練ではありません。ただ、リアルな体験を通して「知る」ことだと思います。

 

私の痛くなった指は、私に高度でテンポの早い演奏をするのではなく、一音一音を大事に心を込めて演奏することを教えてくれました。また、パソコンに依存しすぎな私の生活のスタイルを、紙と鉛筆に戻ってじっくり考え、書物をじっくり読む必要を教えてくれました(中指は鉛筆で字を描く分には全く痛みません!)。


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