2017.09.11

善きサマリア人

gf01a201503301200今日からまた新しい一週間が始まります。

「善きサマリア人」の話はご存知の方も多いかと思います。昨日の日曜学校のテーマでした。

ある人が山を越えて旅に出たとき、山で強盗に襲われ酷い怪我を負わされました。

通りがかりに、その人が倒れている様子を見た祭司は、「危ないところだ」といってそそくさといってしまった。その次に通った祭司の手伝いをする人も「急がねば」と、見て見ぬ振りをしていってしまった。ところが、その人と仲の悪い部族であるはずのサマリア人が、通りかかって、ロバに乗せて、宿屋まで運んでくださり、看病してくださり宿屋の代金まで払ってくださった、というお話です。

昨日は非常に貴重な視点を教えてもらいました。

サマリア人が、なぜ彼を助けたのか、という点です。

 

実は、サマリア人は、倒れている彼を見て「かつての日の自分」をそこに見たのではないか、ということです。

そうやって倒れて起き上がれずにいる時に、自分も誰かに助けてもらった。だから、かつての自分と同じように倒れている人をみたときにほうっておけない。きっとそう思ったのではないかと思います。

人が強烈な使命感を感じて、あらゆる利害を越えて、人生をかけて取り組める仕事とは、このようなものではないでしょうか。

単に、同情とかいうレベルではなく、「せずにはいられない」という気持ちになります。

 

人はなんのために生きているのか。それは、愛され、愛するため。

あらゆる苦難、困難、その先にある希望、喜び、それをともに分かち合っていくことが、生きていく意味を明確が明確になります。

 

ともに苦しみ、ともに泣くこと。ともに喜ぶこと。

そのために一番求められるのは、時間です。

自分の時計を捨ててしまわなければいけません。

 

私たちは時に、神を自分の時計の中で動かしたい気持ちに駆られます。

合格祈願、事業の成功・・

 

しかし、様々なことを通して、私たちはやがて、神は自分の時計の中では動いてくれないことに気づくのではないでしょうか。

 

苦しみを通った人は、自分の時計を捨てることを知っています。

自分の時計は、死とともに止まります。そのときに、残るのは神の時だけです。

 

夕刻に危険な山道をそそくさと急いだ祭司たちのように、自分の時計で生きる人生から、神の時の中で生きるものに変えられていきたいものです。


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