2016.07.20

死の先の希望 - Hope after death -

IMG_1360先日のリトリートで五頭・長生館の裏山を散策していた時のこと。

折れた、枯れ木から、きれいな新芽が出ていました。

本当に不思議です。どう見ても命の尽きたようにしか見えない気にどうしてこんなにきれいな新芽がでるのでしょうか。

 

20世紀に最も活躍した伝道者、ビリー・グラハムは人間にはどんなにテクノロジーが発達し、ビジネスが栄え、医療が進んでも、解決できない3つの問題があると言いました。悪・苦しみ・死です。有名な人の臨終の場に立ち会い、死を恐れ悶える姿を数多く見てきた、と話していました。

 

昨日はあるビジネスのセミナーに行っておりました。世の中を勝ち抜いていくための様々な方法が討議されておりました。これだけの叡知を集めるのは素晴らしいことです。

しかし、人は死ぬときには、すべてを手放していかなければなりません。なんと惨めで虚しいことでしょうか。この世で命を懸けて努力したことは、すべて消え去ってしまうのです。

スターと呼ばれる人たちも、多くの場合、若き日の姿の幻想を皆は思い描いているだけで、年老いたスターの現実や、臨終の現場まで見届けられるファンがどこまでいるでしょうか。

 

 

この問題に対し、あらゆる宗教や思想、哲学が様々な試みを行ってきましたが、神の側から示された答えはこうです。

「私は道であり、真理であり、命です。私を信じるものは、死んでも生きるのです」(ヨハネ14章6節)

パスカルの賭け(Pascal's Wager)という有名な確率論の論法があります。神を信じるということにおいて、失うものは何もないが、神を信じないということにおいて、失う可能性のあるものは甚だ大きいということです。

           神は存在する     神は存在しない

神を信じる      ∞(天国)       None

神を信じない     ?または -∞(地獄)      None

 

終末期の方々と向き合う中で、必要なものは「覚悟」とハープセラピストの方は語っておられました。それは、死の現実から逃げずに向き合うこと。自分も死すべき存在として共に歩むこと。

そこに希望がないならば、死と向き合う仕事は辛いばかりです。

 

終末期の方々に信仰があるかどうか、もしくは何の信仰をお持ちかは、人それぞれだと思います。それぞれの信条に従い、平安に人生を締めくくることができれば、それが一番良いと思います。しかし、死に対する不安が、本人、家族、ケアする側にある時、そのときの希望になるのはやはり「神の約束」ではないでしょうか。それをいかにわかりやすい形で共有するか。音楽もその手助けの一つです。

 

聖書は、信仰を持つことで身の回りのすべての問題が解決するとは語っていません。むしろ、賛美歌や聖歌にも度々歌われているように「苦しみや悩み、この世の嵐の中にあって、世が私を捨て去っても、神の愛、救いの約束は変わらない」です。結婚式でよく歌われる「いつくしみ深き」の歌詞も、まさにそうです。

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたもう    

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん

天上の音楽「祈りの歌」に収録されているバージョンをよろしければお聞きください。

 

 

 

 

 


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