2021.09.12

雲の上の虹

あまり見ることの出来ない光景だが、雲の上に虹がかかっていた。愛子さん撮影。

 

昨日、愛媛の菊間におられる、私の小学校のころの最初の牧師先生である杉野順子先生と久しぶりにお話ができた。私がまだ将来のイメージもたいしてない頃に「あなたは音楽の道に進んだほうが良い」と唯一押してくださった先生だ。今でも私の大事なメンターの一人。とても感動したお話で、自分のメモとしても残しておきたい。

「5年前から、毎朝こういう祈りをするようになった。まず

1)頭に手をおいて「神様、今日一日、私の思いをあなたが支配してください」

2)目に手をおいて「今日一日、私が見るものがすべてだと思い込んでしまわないようにしてください。目の欲から遠ざけてください」

3)耳に手をおいて「今日一日、私が聞くことがすべてだと思いこんでしまわないようにしてください。神様の声をみことばから選び取らせてください」

4)胸に手をおいて「今日一日、あなたの清い心をお与えください。あなたと思いが一つになるようにしてください」

5)口に手をおいて「今日一日、私の口を支配してください。語る言葉に配慮があり、誰かを傷つけることがありませんように、口を制してください」

6)手・足に手をおいて「今日一日、私の手と足を、あなたの御用のためにお使いください」

そうやって祈りはじめると、夕方に、いかに自分がそれが出来ていないか、ということに気付かされる。そこで、神様のAmazingなGrace、それは恵みというより、受けるに値しないものに与えられる「あわれみ」だ、と感じるようになった」と聞かせてくださった。

 

そう祈る前は「神様、助けてください!!」ということが多くあった(私はまさにこの段階・・)そうだが、それは自分の計画に神様を合わせようとする、神様の思いを無視した非常に自分勝手な祈りであることを思い知らされた。

日々の保育の中で実際「神様、わかりません、助けてください!」というシチュエーションは山のようにあり、しかも各方面で連続している。しかし、特に配慮が必要な子は必ず、こちらのそのような「ケアしなきゃ」という思いをすべて見抜いている。だからこそ、Attention Please、本当の私はあなたに操られてたまるか!と言わんばかりに、こちらの思惑を持って望むとうまくいかない。

しかし、その子の一生、神様のもっと長い計画からすると、私が今日みているのはそのほんの一コマ、ほんの一部分。そこで何かを判断することは、やはり傲慢かもしれない。どちらかといえば、私の計画や運営サイドの配慮という名の下の傲慢から、神様の視点に立てていない自分のことをその子を通じて警告を受けている、という方が的確かもしれない、と思える。

一方で神様は、必ず不思議な方法で助け手を備えてくださり、そして神様の方法を教えてくださる。もし私に聞く耳があるならば。

保育は決して個人プレイではなくチームプレイ。だからこそ、その神様の視点を、保育者にも、子どもにも、そしてひいては関わる「ひとつの大きな家族」全体に共有していくことはとても重要な管理者の責務だと感じる。そのためには、私自身が忙しさに振り回されるだけでなく、朝の祈りから変わらなければ。

改めて、目から鱗の時間であった。

 

 

 


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