2017.06.20

「自分とは何か」という問い

IMG_0034先日、滋賀県近江八幡市のヴォーリス記念館に行きました。

ヴォーリスは私が尊敬する一人です。記念館に隣接したヴォーリス設計のヴォーリス学園の体育館です。現在もしっかり使える状態で、階段やデザインの至る所に子供に対する心配りがあるのに大変感動しました。

自分は何者であるか、という問いは、古代の哲学者に始まり、ありとあらゆる思索がなされてきました。そして、今日、様々な考えがあると思います。

それを「価値観」という言葉で表現するべきなのでしょうか。

 

人は小学生になるころから「アイデンティティ」が確立してきます。就学して社会との交わりができてくると、いっそうアイデンティティ、すなわち「自分とは何か」を考えるようになります。

 

しかし、聖書の神のことばは非常に単純明確。

「わたしこそ神であることを知れ。」

 

創世記でエバがりんごを蛇に勧められて口にするまでは「お互いは裸で、自分のことを恥ずかしいと思わなかった」とあります。

 

恥の対極は名誉です。いずれにしても、「自分とは何か」を問うからこそ、出てくる概念ではないでしょうか。

特に私たち音楽家は、常にこの「自分とは何か」を求められます。

しかし「アイデンティティに固執してはならない」というのが大事なことではないでしょうか。

 

裸である、とは、自分の隠すべき所がないこと。同時に、自分に何の付属物や所有物もない状態です。そこには「人格」はあっても「自分とは何か」を問う必要がなくなります。一人の人間、以外に何もないからです。

 

福音書で度々出てくる「敵を愛しなさい。取る者には与えなさい。」の箇所は、「資本主義の世の中でそんなことを言っていたら、本当に餓死してしまう」と思わされる所です。

しかし、これは本当に餓死を覚悟で実践してみた人には、気付くことがあります。「世の中は不思議と回っている」ということです。

もし無限大に自分のリソースがあったとすれば、奪われることは問題にならないはずです。

絶対に戦いに負けない、と分かっていたならば、敵は意識する必要がないはずです。

 

だからこそ、自分がどうであるかをさておいて、すべての与え主である神を第一とせよ、つまり愛に生きよ、ということが、問いの答えになるのではないでしょうか。その先に、本当の意味で神に用いられる「人格」が形成されてくるのだと思います。


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