子供にとっては、草・花・石が、冠やパンに本当に見えたりするのですね。自然の中で遊ぶということは、本当に創造力を育むのだなあと実感します。
子供が石で作ったアート。見事ですね。
自然の中には、何一つ、私達が簡単に規格化できる形や色が存在しないことがわかります。
多様性が、いろんなcreativityを生むんですね。
大人になると、人は物事を規格化する尺度を覚えます。
もしくは、規格そのものを作りたくなります。
そして、規格に慣れると、規格がないと不安になります。
こうしてタイプしているパソコンの文字は、実に規格化されたものです。
便利ですが、creativityがありません。
「あ」という文字の奥に含まれる、その人の思いや、響きといったものは規格の中に閉じ込められてしまいます。
つまり、個人の自己表現が、一般化された「規格」に見えてしまう、ということです。
これは、ものすごく怖いことです。
良かろうが、悪かろうが、意見の発信力の強い者の意見が、世の中のスタンダードとなる。それが可能になってしまう。
弱い者、形の悪い者、力のない者は「必要ない」という実力主義が、まかり通ってしまう。弱者をサポートすることすら、自己主張の一環としてなされるようになっていく。
結局のところ、多くの人が「何か世の中はおかしい」と思いながら、自分の属するべき「規格」を探し求めて生きている。
しかし、聖書によると、神が定めた人間の規格は、一つです。
人は、神によって造られ、神によって生かされている存在であるということ。
別の言い方をするならば、いのちの日の限り、愛し愛されるために生かされている、ということ。
その規格の中で、人は無限の多様性と価値を発揮するものではないでしょうか。それは、自然界と同じく、人には簡単に規格化できないものです。
年を取れば取るほど、これを忘れないようにしたいものです。